真・ペペロビッヒ少佐のだいぼうけん S-03「ディアナの夜」

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 リヤ城塞天守閣の襖が開け放たれた。城塞の外から見る者は「金の風が吹いた」と評したかもしれないが、あいにく人はいなかった。
「戦の前は悲しゅうございますなあ」襖を開けたは筋骨の逞しいその老人、着物を着崩して露出した上半身は肌理の細かさが皺の多い顔貌と相違する奇怪な容姿である。天井に頭が擦れるほどの大きな背丈を動かして、畳敷きの上に両手を置き両足のつま先を半回転、見事な逆立ちの姿勢を作った途端に右手をそっと除けるやいなや、残る左手だけで姿勢を支え始めた。「逆立ちになるとものがよく見えます」

彼がみた空は雲ひとつ無い快晴だった。高階ゆえに風が老人の体を刺すように吹いてきたが、その姿たるや筋肉岩、岩筋肉。

「最後の空の色やもしれませぬ」そして場にいたもう一人、金色の畳に足を崩した白無垢の彼女は座り直し、正座。
しなやかな動作は高位の人間を証明する優雅さ。
紛うこと無き美貌。
憂う表情すら均整が取れている。
老爺は思い出す、いつしか彼女と共に見た湖上の鶴を_これぞ“雷電公”ウォーク・ハイド・シャーテリヤが娘、“風林姫”アイラーニャ・ハイド・シャーテリヤ。
(爺は姫様がここまで立派にお育ちになるとは思いもよりませんでした……イカン、戦の前で憂愁にかられるのは年老いた証拠。)
生来より姫の世話付である老爺に彼女の秘めた沈痛は見るに堪えた。況してや彼女の父親のことを思えば尚更なものだった。「旦那様いえ父上様も同じ空を見ていることでしょうな」つい彼は彼女の顔をみないで言った。彼女は何も言わなかった。当然だ。老爺は後悔した。やがて襖の間の青空が加速した。みるみるうちに陽が昇り沈み夜空へ変わり、薄紫色の月が紫色の夜空に浮かんだ。これが、これが呪術の粋。感動のあまり老爺は片手逆立ちを止めて普通に立ち尽くした。
「姫様、《ディアナの夜》は成功致しました」
しかし呼びかけた相手は微動だにしない。何かをじっと待つように、ただじっと座って、じっと目を閉じて、じっと口を開かない。昏々として返事もしない。「姫様」まさか_負荷の大きい代物、齢二十歳もいかぬ彼女、いくら大呪術爾支にして天才、多くの仕手と共に起術したとはいえ、自然をねじ曲げた代償_魔術の才なき彼の老爺、想像に及ばず、皺だらけの顔に一筋、汗が流れた。「姫様っ」
三度の呼びかけで目を覚ました彼女は途端にすくりと立ち上がった_平然と。
「ジョウゼフ、太刀を取れ」
老爺は呆気にとられた_あまりに渾然と言い放たれたものだから。
直ぐ様に太刀の黒鞘を献上の体で持ち上げる。老爺は最期まで付人。ハイド家へ二代に亘って支えた彼の心中にこれまでの光景が去来する。付いた膝が、太刀を支えた手が、全身が震えるのを止められなかった。掌で刀が揺れる。
「ジョウゼフ、いまは泣く時でない」
先の陣中、旦那様が言っていた_今日は死ぬにはいい日だ。


 時刻。いよいよ成った_《ディアナの夜》は一大禁呪、始動に三百余名の巫女ならびに八名の泄謨觚(せつもこ)を擁した大掛かりとなった。今日に到るまで幾十人ばかりの犠牲を払って漸く完成、その結実をいざ目にすると事の大きさ_自然の改変、費やしてしまった人命、そしてこれから起こす謀叛_に武者震いする。
「やべぇやべぇ」「地面が揺れとる」兵たちがこぞって横目で見ている先、高速で武者震いするは“雷電公”ウォーク。武者鎧を纏っているにも関わらず、その震えは振幅大きく、なんと残像が現れていた。次いで彼の上空に暗雲が集まってきた。暗雲は音を立てて帯電している。これに兵士たちは「おお、彼こそが雷様」「流石雷公」と崇めたて始める始末。
するとウォークがいきなり「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」と叫び声を上げるやいなや暗雲から彼に向かって雷が落ちて、太鼓を打ち鳴らしたかのような音が鳴り、夜目に悪過ぎる発光は周囲の目を眩ます!そして目を開いた者がみたのは、立ち上がる煙に巻かれながらも、落雷に打たれる前の姿のままでにこやかに笑う彼。
「ふう、スッキリした」
ウォークは近くの将兵を呼んで出発の準備をするようにと言い、彼も馬に跨った。その馬は真っ黒な肌を持ち目は赤かった。「おまえもこれで外に出られるよ」彼は毛並みを撫でた。
間もなく人馬が彼の後ろに並び終えて、列の先頭に立った将校が「雷公、概ね準備完了です」と報告する。「ご苦労、ありがとうね」とウォークは人の良い笑顔を作った。ウォークが馬と共に将兵たちへ向き直る。場を緊張が支配していた。誰も彼もがウォークを見ている。真剣な眼差しが彼を刺す。「さて……いよいよ出陣だ」ウォークは話し始めた。彼らの眼差しに答えるように。「あんまり僕が上手いことの言える人間ではないと君たちは知っていると思う。だから僕は簡潔に話したい。まずひとつ、僕は君たちを誇りに思うよ。今回の決起、はっきり言って無謀な賭けに過ぎないから、もしかすると犬死沙汰だ。栄誉ある死に方なんてない。死んだらそこで終わり。君たちは強いけど、ここで終わる可能性は十分にある。だから感謝したいんだ。ありがとう。僕は、ほんっとうに、頭が、あたまがあがらなくて……」
頭が下がり始めたウォークをみて雷公、と心配したざわめきが起こるが、「オイ」先と変わって刺すような声が響き、そのざわめきは公方当人によって制された。もっとも本当に彼かどうかであるかは誰もわからない。彼にも。その一声に誰もが息を呑んだ。再び顔の上がった彼から人の良さそうな顔は消え失せて、吊眼で三白眼の形相。「テメェ等、ここで無駄死なんぞしてみろ……」まるで雷に打たれたような変わり様。「その前に殺してやるからな」イェア!と歓声。
同時刻、テリヤ砦の門は開かれて軍勢が猛発進した。目指すは帝城。テリヤ公によるテリヤ軍勢の一大クーデターの勃発である。

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