思い出語り_『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』

 『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』を見た。内容は1960年代のフランス映画の主要人物であるゴダールトリュフォーの出会いと決裂を描いている。

 ゴダールトリュフォーもわたしは結構見た。理由はオタクの求心力があって単純に暇だったからだ。二人に関する本も結構読んだが、内容は断片的にしか記憶していない。

 だから、まじめな文章を書けないことを言い訳しておく。多汗症による手汗もひどくて、レトリックに凝る気すら起きないと言い訳を二段重ねしておく。そして、思い出語りなので映画の感想より個人の回想の方が長いと三段重ねしておく。

 今回の話題といいますとね、ゴダールトリュフォーどっち派ですか?という問いですよ。

 それは、わたしがヌーヴェルヴァーグの映画を集中的に見ていた頃へ遡る。わたしの友人にはシネフィルがいて、彼は映画館でアルバイトして映画を年に三百ほど見て、ついでに熟女好きだ。熟女好きは当然ヌーヴェルヴァーグも見ており、当時わたしたちはゴダールトリュフォーやハスミンで盛り上がっていた。

 熟女好きは、ジガ・ヴェルトフ時代いわゆる政治化したゴダールを見ていなかった。単に見る機会がなかったのと、前評判から見る気も起きなかったのだと思う。ジガ・ヴェルトフ時代のゴダールの映画は、いろんな人が評しているから他を当たってほしいが、まあ単純で簡潔に節操なくあけすけに野蛮な言い方をすると難解だ(映画の雰囲気をわかりやすく伝えるために難解と表現しました)。わたしは68年フランスやマルクス主義運動の本に親しんでいたから、たのしい知識を得ようという心持ちでジガ・ヴェルトフ時代のゴダールを見たが、ほーん、中国共産党に共感してんだな、という具合で主張を十全に咀嚼するでもなく映像の実験場としてたのしんでいた。(映画中に寝るのってたのしいですよね?)

 わたしと熟女好きは、ゴダールトリュフォーの映画の手法について話し合っていた。わたしはその頃トリュフォーは好きだがダサくないか?と思っていたから、映画理論や政治と映画という本を読み、いわんやゴダールに転移して「映画オタクくんさあ……」といういっぱしの口を叩いていた。一方で熟女好きは、「いやでもさあ……」とわたしに反論するでもなく口ごもっていた。

 懐かしい記憶の話題はここで終わる。

 久々にゴダールトリュフォーヌーヴェルヴァーグとの名詞に触れ、映画を観覧したが、今やわたしはあの時と違う話が出来るのでないかと思い至った。

 ゴダールに転移していた理由は諸々だが、一番は政治が問題意識にあったからだと思っている。政治は政治でも「内閣は毒電波によるキノコパワーで国民を無力化している」という言説でなく、「わたしたちはわたしたちのことをどうするのか」という広い意味の政治であって、更にそのテーマにおける「創作の受容」という問題意識だった。つまり、例えるなら「表現で人を傷付けるかもしれないことに自覚的でいよう」という言説の周辺に興味があった。

 当時わたしと熟女好きは組織に所属していて、組織でバカ面白いことをやろうと息巻いていた。それはパフォーマティブな反復で、観客から銭か塵が返ってくるような思い付きだ。実行され公表されたが、結果は思い描いた予想をもちろん下回り、内輪で消費された(と思う、しかし僅かながら嬉しい反応はあった)。

 というわけで、興行も乏しく作家的な試みに挑戦していたジガ・ヴェルトフ時代のゴダールに転移していたと説明したら、納得いただけるだろうか?(べんざカバーの自我調べによると納得しないでほしいとも意見もあり)

 けれども『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』をみて、思いがけず今のわたしを代弁したのはトリュフォーだった。

 トリュフォーのお抱え俳優ジャン・ピエール・レオに向けて、ゴダールトリュフォーの『アメリカの夜』とレオの態度を批判する手紙を書いている。トリュフォーはレオに代わってゴダールへ20ページの返事を書き、この手紙によって二人は決裂してしまった。との脈絡が『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』でナレーションされている。その手紙の内容は恐らく調べれば出てくるので、気になった方は見てほしい。

 まあ、いわばゴダールトリュフォーは政治的態度から反発し合ったわけだ。その後ゴダールは政治映画を作る一方で、トリュフォーマティスの絵を回想しながら芸術に政治は必要なく芸術は他者のためにあると述べて(要検討)、自分の作風を転回せず1984年に逝去した。

 上の通り朧げなんだけど、わたしはトリュフォーの語りに共感した。わたしはいま時間があることを良いことに、多くの作品に接して自分の世界に没頭しつつある。政治の話は聞きたくないわけじゃないが、つまらないだろうとの予測のもと、つまらない話しか聞いていない。もちろん現内閣による驚愕の陰謀、秘密、スターウォーズ計画などが暴かれても、結局のところ利権や外交関係に尽きるだろう。政治の現実はたぶん、つまらないし、そこはわたしの住む場所じゃないと感じている。そして、この話題は政治にアンガージュマンしたくないと言ってるわけじゃないと先んじて言っておく。

 言いたいことは、ゴダールトリュフォー両者の態度のバランスは取れなかったのか思案してしまったことだ。正直なところ、ゴダールトリュフォーも言葉の表面によるすれ違いなだけであって、想像界の双頭的関係による無意識的な衝突だったのでないかと考えている。ちなみにわたしはトリュフォーの態度をあの頃けなしていたけど、今や正直な態度でいいなと感じるし、トリュフォーゴダールと同じくらい好きで、事実として見た映画の数ならトリュフォーの方が多い。

 「バランスを取る」とはどういうことなのか? わたしが言いたい方向は弁証法チックだが、それは不可能な弁証法かもしれない。芸術と政治はよき夫婦でなく、その結婚も悪い予感しかさせない。

 しかし、ゴダールは映画の中で見過ごせないことを述べた_「映画で現実を学んだ」。映画の写す現実とはなにか? それはミニマルな現実なのか? もしくは享楽の体制を見せかけにしてしまうような現実なのか? 

 芸術性や政治性という要素の、バランスを欠くことない創作とはなんだろう……『勝手にしやがれ』と『大人はわかってくれない』をもう一度見たいと思った。

 もちろんこのバランスは、ヌーヴェルヴァーグに後続する映画監督ならば、けりをつけるなど何なりして意識の過程を経て表現していると思うし、ファンもそうだと思う。このわたしの疑問はわたしの人生の一回性に依るものだ。熟女好きと、また話さなければならない。

 そんなわけで、『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』は、私にとって回想の機会を与え、或る躓きと或る着想に関する映画だった。いつのまにか手汗がひいている。食事にしよう。

@goodbyewoosiete