『去人たち』紹介/第一章「秋日狂想」から『去人たち』を読む

みんな大好き『去人たち』の記事を書く。今回の記事は二本立てで題目通りだ。

本文は『去人たち』の紹介記事も兼ねている。クリア済のかたはそのままお読みいただければ幸いだが、プレイしていないかたは下のURLにアクセスするか、ネタバレ箇所を読み飛ばして、紹介部分だけ読んでもらえれば幸いだ。「秋日狂想」に限ってネタバレしようと思うので、ネタバレいらないよという方は去ってよろしいです。「秋日狂想」だけをクリアした方でも読めるように配慮してありますので、ご安心ください。

http://kyojintachi.k2cee.com/#!home 

 

 

『去人たち』紹介__ノベルゲームの悪魔の所業

私が個人的に『去人たち』を強くおすすめしたいと思う人は、自分の生きている現実に対してなにか思うところのある人だ。自分の生きている現実とは、なんだろうか。そんな漠然たる思いを抱えている人に、ぜひプレイしてほしいと思っている。

 

さて、端的に、ゲームが奪うものは時間である。

恐ろしいことだが、ゲームはプレイすることで、プレイしなかったかもしれない時間を奪うだけでなく、ゲームをプレイした後の時間さえ奪うのである。そのゲームをやってしまったら、もう二度とプレイしなかった頃に戻れない__知ってしまったら、もう戻れない。

オープンワールドゲームが、なぜ流行るのだろうか? それは、プレイしなかった頃に戻れないからだ。プレイヤーの挑戦を求めるタスクが、無限のようにオープンワールドに配置されている。多くのタスクは連関しているから、プレイヤーは野菜を土から引っ張るようにずぶずぶ時間を費やさなきゃいけなくなる。タスクを終わらせると、消費したタスクとその結果が確認できて、費やした時間を横目にしながら楽しかったなと言わざるを得なくなる。これが『時のオカリナ』などの3Dゲームの極地という気がしないでもない。だから、わたしはオープンワールドゲームをクリアする度に、わたしゃ農家で、ゲームは土だなって思うわけ。それはわたしが育てた土壌じゃないけど。

『去人たち』は、ジャンルとしてはオープンワールドゲームじゃない。マップはたいして広いわけじゃない。だから一日や二日あればゲームはエンディングを迎える。自由度は高いわけじゃない。ほぼルートが決まっている。

しかし、『去人たち』は、オープンワールドゲームと比類する深さを持ったゲームだ。プレイヤーが相手にせざるを得ないタスクは、言語のかたまりであり、テクストだ。タスクは、テクストを理解せずとも、ポチポチやってるだけでクリアすることができる。

しかし、テクストを理解しようとすると、ずぼん!(水の音)

 

 

ノベルゲームは言語のかたまりなので、言語をどう理解するかにゲーム性が凝縮されている。言語はみんなのものなので、ゲームにおける言語のかたまりは、当然ながら作品内で論理関係が完結することができない。であるからして、ノベルゲームにおける言語はゲームのなかで最大の役割を果たす言語だ。

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『去人たち』/K2Cee

音楽が鳴るなかで背景と立ち絵とテクストがプレイヤーの前に現れる。この配置においてプレイヤーはそれらの意味を等価に受容するだろうか?

それは難しいと思う(わたしは研究者じゃないので断言はできない)。なぜならクリックして動く対象の多くはテクストだからだ。プレイヤーはテクストの意味をまず理解しようと務めると思う。ノベルゲームにおけるタスクは主にテクストなので、尚更そうだと思う。

『去人たち』のうまいところの一つ目は、そのテクストに文学のやりかたを持ち込んだことだ(主に去人たちⅡにおいて顕著)。文学といってもむずかしいことじゃない。そのやり方を持ち込んだだけので、文学をわからなくても『去人たち』はまったく読めるしとても愉快だ。注目すべきは、これによって『去人たち』はフリーのノベルゲームにおいて、異質なゲームとなったことだ。わたしは、寡聞にして同じようなゲームを知らない。

『去人たち』のうまいところの二つ目は、ノベルゲームの可能性を探索する表現だ。先からテクストの話しかしていなかったが、『去人たち』では最終的に音楽も絵も愉快になる。結果、異質さに磨きがかかり、プレイヤーはこのゲームでしか体験できない体験が得られるはずだ。

結局のところ、ゲームは時間を奪うことでなにを目指すだろうか?それは、感覚の変化だ。言い換えるとトリップだ。『去人たち』は、プレイヤーをトリップさせるにあたって、ほかのゲームとは異質なトリップを体験させてくれるだろう。

そのトリップは現実に影響を及ぼしかねない悪魔の所業かもしれない可能性があるために、くれぐれも注意しながらプレイすることを推奨したい。

 

物語の内容は、はじめミステリー・サスペンス的な展開が繰り広げられる。しかし話が進むにつれて、深刻でシリアスな内容となる。わたしの個人的な好みは、哲学チックな要素とセンチメンタルな要素がいい具合に絡まっていることだ。Ⅰのみ声優が声をあてており、これがまた名演だ。

また音楽が特段に良く、サウンドトラックが売られているのだが、未使用・イメージソングが数十曲も同梱されており、かなり良い。手放せないシロモノとなっている(そして、わたしが去人たちを忘れられない理由になっている)。

グラフィックについて書きだすと語りたい事が多くて止まらないので余り書かないが、油絵風のキャラクターはこのゲームの画面にとてもよく馴染んでいて、異質さを醸し出すと同時に印象付けさせることに成功している。立ち絵はいるいらない話をニコ生でしていましたが、この均整な立ち絵がかえって不安や寄る辺なさを漂わせながら美しさをたたえており美人画的な美しさが(以下略)

 

以下ゲームの画像。

 

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去人たち/K2Cee

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去人たち/K2Cee

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去人たち/K2Cee

 

第一章「秋日狂想」から『去人たち』を読む

※今記事は猫箱ただひとつ氏の次の記事を参考にさせて頂きました。

 猫箱ただひとつ氏に感謝いたします。

『去人たち』考察―精神病者は踊り狂い、傍観者は去っていく― - 猫箱ただひとつ

 

 

 『去人たち』「秋日狂想」は、本編に含まれなかったかもしれない内容で、グラフィック担当の吉川にちのさんの意図によって『去人たち』の導入を飾ることになったという経緯が、いつぞやかのニコ生にて話されていたと記憶している。(記憶があいまいなので、訂正があればお願いします)

その判断はすばらしいと思う。なぜなら『去人たち』という作品において、「秋日狂想」は『去人たち』という作品の構成要素が詰まっている章立てのうえに、なにより「秋日狂想」の物語だけでも単体の作品として楽しめるからだ。

「秋日狂想」は『去人たち』の物語の核心にほとんど触れず物語を冗長するので不要だという意見もあるかもしれない。物語の序章は、物語を駆動する歯車について説明し、結末を仄めかせ、いわばラストに至るまでのラインを白粉で引く。その役割からすると、「秋日狂想」は歯車の説明をするものの『去人たち』のグラウンドに白粉で線を引かず、物語の全体から顔にできた吹き出物のように孤立している。

しかし、ゆえに、なおさら、逆説的に、なぜ「秋日狂想」は導入を飾ることになったのか思考することが必要であると考える。作者の死というけれども、作者を無視していいわけではない。作品には作者の「意図」が必ず存在するとわたしは考えるからだ(糸、いと、イド……? あるいは、作者とは父-の-名だ、ゆえに厳密には無視ができない)。そしてその点でいえば「秋日狂想」は上述のように揉めたことがわかっている。

いわば「秋日狂想」は、生き延びたのだ。生き延びたものの語りを、理解してやれるだろうか? 理解しないで……と言われたときに、理解しないことがほんとうに正しいことなのだろうか。たとえ理解しない体裁をとったとしても、暗黙裡で理解したことにウソをつくことにならないだろうか。

わたしの主張は、「秋日狂想」は『去人たち』要素を隠喩・換喩的に漂わせ、『去人たち』導入の役割を持っているということだ。この主張によって、『去人たち』がなにを表現しようとしていたのかを、表現してみたい。

 

 

下記よりネタバレするよ_____________________________________

 

 

Ⅰ テクストを読むことに関する物語

霜の降つたる秋の夜に、庭・断碑に腰掛けて、月の光を浴びながら、一人おまへを待ってゐる

__『去人たち』「秋日狂想」(以下、引用は引用先から)

 

Ⅰと表記したが、話に区切りをつける目的で、筆者が勝手に分節したことを了承していただきたい。

今節のあらすじは下記となる。

 

・舎密部の「俺」宛てにダイレクトメールで水色の封筒が届いた

・中身の三つ折りの紙切れは何も書かれていないので指紋検証を行った

・浮かんだきた左手の手形は指が六本あった

・指紋を拡大すると上述の文章が穿ってあった

 

この時点での『去人たち』の特徴的モチーフを示してみよう。

まず、この時点で『去人たち』の特徴的モチーフのひとつの「テクストを読むこと」が登場していることだ。上述の引用文の内容をこのとき「俺」は理解しない。しかし、この先の展開では、あれやこれやと当てはめることになる。このときの「俺」の視点は、この文章に対するわたしたちの視点と重ねることができる。更にもっと大胆に解釈すると、『去人たち』という始めたばかりのゲームに対するわたしたちの視点と重なる。だから、このときの「俺」の視点は、メタな視点といってもいいかもしれない。

舎密部の「俺」に届けられたダイレクトメールは、「俺」の手を通してわたしたちに読まれる。読まれるテクストは、つねに別のだれかに読まれた=解釈された上で読まれる。わたしたちの読みは、だれかに読まれたテクストに由来する。わたしたちは、だれかに読まれたテクストを頼りに、物語=テクストを探索することができる。読んだテクストを頼りに、「俺」が物語を動かすように。

わたしは確信しているので、早々と結論を書いてもいいかもしれない__『去人たち』は、テクストを読むことに関する物語だ『去人たち』は、読むことによって探索される意識や現実を表現している。個々の登場人物たちは、読みによって、あるいは読まれることによって、または読まれたテクストを読み返すことによって、「生きていくための現実」(後に出てくる登場人物のセリフ)を探すのだ。

それでは、どのような意識や現実が探索されるのだろうか?生きていくための現実とはなんだろうか? ディテールはどうせまた後でも繰り返すので留保しておいて、次の節に移ろう。

 

Ⅱ テクストの快楽

「わたしの頭の中には、いつの頃だったからか、“透き通っているかのように肌の青白い、薄命そうな少女”が独り棲んでいて、それは“セーラー服”なんかを着込んでいて、そして月の光を浴びているの」

__少女

 

“どのような命題にも例外がある”という命題にも例外があるとすると、例外がないということになる。だから自己矛盾である。

__「俺」

 

今節のあらすじは下記となる。

・廊下でありすに出会う。出会いが語られ、黒い旗とか手相とかでいちゃつく

・真夜中に庭・断碑で盲目の少女に出会う。という夢を見て、少女と会った場所で点字の紙を拾う

・昼食。「俺」の奥さんの存在が示唆される。覚えのない吹奏楽部の盗難事件について翠子と会話を交わす

タツヲと仲良くおしゃべり。次の日に吹奏楽部員の転落事故が起こる

・遺体安置所にて盲目の少女と会話。探し物をひとつだけ見つけたと少女は言う。繰り返す言葉に出てくる少女は自分自身でないかと「俺」が指摘すると、全ての忘れ物を思い出したと言って少女は消える。入れ替わりに翠子が現れて会話する。

・捜査中に吹奏楽部員を盗み聞き、只埜の存在と、転落死した部員になんらかの骨が送られていたことを知る。只埜の姿を眺める。

・詰め所にてタツヲとの会話により只埜のプロフィールが判明。翠子の電話によって死亡事故が知らされる。

・音楽室で只埜のアリバイを確かめる。なぜかポケットから点字楽譜が出てくる。只埜は動揺する。

・詰め所で翠子と会話し、死亡事故の詳細について確認する。

・体調の悪い「俺」とありすの会話。(このとき記載される「丘の上のビョーイン」は、去人たちⅡの病院?)

・放送室で首吊り死体と盲目の少女を発見。只埜と翠子が入れ替わるようにやってくる。

 

今節では、『去人たち』の主要な登場人物が出揃う。このようにして書くと、プロットの優秀さがわかる。

いろいろ解釈したいことをさて置き、ここで言及することは「テクストを読むこと」がたくさん出現することだ。「俺」は読む。手相、点字タツヲと盲目の少女の発言、翠子の精神分析吹奏楽部員のデータと発言、只埜の様態。

また「俺」だけでなく、盲目の少女も読む。盲目の少女は、上述の言葉をうわのそらで喋るが、“透き通っているかのように肌の青白い、薄命そうな少女”は自分でないかと「俺」に指摘されると、納得したかのように消える。盲目の少女は、その時にこの言葉を読めたのかもしれない。

テクストは「俺」や盲目の少女に読まれ、次にプレイヤーが読む。プレイヤーは、読んだことについて想起する自由を持っている。ちょっと知っていれば、ああ中原中也だなとか、雀聖と呼ばれた男だなとかパロディを想起するかもしれない。『去人たち』の魅力はパロディ要素にもある。

 

Ⅲ 生きていくための現実を失いし者たち

 

美神の博士も病床で妄想を抱いていた。

だから、その妄想はその当事者にとっては許容しなければならない妄想であろう。

そしてそれを真実として受け止めねばなるまい。

死の床であるからそうしなければならない、

というのは死に特権を与えることになる。

その考えは改める。

これは『疑似』現実である。

だからそれが真実であると受け止める。

__「俺」

 

今節のあらすじは下記となる。

 

・相談室で只埜との会話。只埜は錯乱し、富絵の名前を口にする。富絵が喋る。

・詰め所で「俺」宛の住所に小指の骨が届けられる。小指を回収するという殺人の論理を思いつく。少女が登場し、自分は幽霊であると告げる。

・十七年前の音楽室の空間に視点が移動する。富絵と只埜康成が登場する。盲目の富絵は只埜から目玉を受け取っていたが「俺」に只埜へ目玉を返すように願う。

・現在の音楽室で富絵と出会う。富絵は胸中の気持ち、自身の死因、只埜の動機を告白する。という夢を見る。

・夢でありすと会話。夢の中のありすは指の骨のことを知っていた。ありすの死の恐怖を感じるもありすの姿で安堵するが、ありすは指が六本あった。

・詰め所にて目が覚めた「俺」は、翠子と会話した後に時間の非現実を感じながら音楽室へ向かう。音楽室にて只埜と会話し、只埜は自分は死んだと言う。そして呪殺を認め、富絵を発狂させたと言う。只埜は富絵への想いを告白し、消える。首を吊った只埜が現れる。

・詰め所にて封筒は未来の「俺」が自分に送ったものであると理解する。タツヲにいちごミルクジュースを指摘される。

・ありすと一緒にいちごミルクジュースをのむ

 

今節は展開が一気に急転し、只埜と富絵の物語はひとつの収束へ向かう。今節の特徴は、作品内で流れている時間が連続性を失っていることだ。富絵の出現で17年前に飛んだり、朝と夜が入れ替わる。その支離滅裂は「俺」が読んだテクストだ。したがって、作品内の時間の実際はまた別の話としても考えられる。

なぜ「俺」にとって時間の流れが支離滅裂に感ぜられたのだろうか?

今章に限って考えられる範囲で、現実的に考えられる理由として、「俺」の体調不良、自律神経の衰弱によって「俺」の観察する視点自体が“信頼できない語り手”になっているという仮説だ。つまりは「俺」が体感する時間が支離滅裂になっているというわけだ。だから上述の内容や、もしかしたら只埜と富絵は発熱したときに見る夢の人物で、今節の内容は調子を崩した「俺」が心理的な作用による幻覚との交流でカタルシス効果を得た__もちろんそういうわけでも支離滅裂の理由として妥当たり得る。

しかしそれでは、只埜と富絵をまったく無視することになる。時間の支離滅裂さを「俺」が体感するとき登場している人物は、この二人なのである。

只埜と富絵が、どのような人物なのか描出してみよう。まず、ふたりの関係を整理する。17年前、只埜は富絵を恋するあまり、抉り出した片目を富絵へ譲った。富絵は発狂し、六本の指を切り落として死んだ。時が経ち現在、只埜は富絵との思い出のピアノを傷付けた人物へ怨嗟の念を込めて富絵の小指を送り、呪法の媒介道具として機能させた。現世を彷徨う富絵は、自身の小指を回収することで呪殺に携わった。

只埜は、自身が発狂させたかもしれない富絵を恋心と後悔から忘れられず、富絵らしき影が出現すると錯乱する。(だから、なぜ小指を送ろうと思いついたのかは書かれていないが類推すると、匿名的な仕返しと、富絵に対する気持ちの断念を兼ねていたのかもしれない。小指を送った人物が亡くなるにつれて、もしかしたら富絵に会えるかもしれないという気持ちが沸き起こると同時に、自分に復讐しに来るかもしれないという気持ちが入り混じっていたのかもしれない。

自ら富絵に殺されることを望んでいた只埜は、六本目の小指を手放さなかった。死後、富絵と同じく幽霊となっていた只埜は、富絵から「俺」を通じて目玉を受け取ることで消えた。

 

「両目で見たって偽物の世界は所詮偽物なんだよね」

__只埜

 

両目を手に入れた只埜は上述のセリフをこぼす。

只埜にとって片目は富絵に月の光を見せるものであり、自分への愛を確かめるために富絵を狂わせるためのものだった。

なぜ只埜はそのようなことをしなければならなかったのか__今更になって書くことの無粋さを感じてきたが、ここまで来たら一蓮托生だ。それは、この偽物の世界において自分が愛されるわけがないと感じていたからだ(そして富絵も同じことを言う)。今章においては、過去で描かれる以外に只埜と富絵が気持ちを通わせることはない。唯一、片目の返還を覗いては。

只埜にとって、片目の返還はどのような意味があったのか。少し俯瞰してみれば、これはただの返還ではなく、交換であることがわかる。只埜は片目を富絵から受け取り、富絵は指の骨を只埜から受け取った。そして只埜も富絵も消えた。問いを変えてみよう、この交換がふたりに齎したことはなんだろうか?

富絵はどのような人物なのだろう。富絵は自身を幽霊という。彼女が幽霊となった理由は、下記のセリフに語られている。

 

「ええ、ずっとずっと忘れていた。どうしてわたしがこの世界を彷徨っているかも知らなかった。でもこれはこの指のせいだった。知っていて? 天国も地獄も不具者は入れてもらえないの」

__富絵

 

富絵はなんらかの因果__「俺」は共謀と指摘するが__で指を取り戻す度に、指を持つ人物を死へと導く。この指は、自身の葛藤や不安、また死の想念が分離されたものだ。富絵がうわのそらで話すセリフは、小指として分離された人格のセリフかもしれないと想像がつく。

 

「頭の中の少女は、指が動くと操り人形のように動き回る。逆に頭の中の少女がその指を動かそうとすれば指は勝手に動いた。その指は常にわたしを殺すことを企てていた」

__富絵

 

富絵もまた、自分が愛されるわけがないと考える人物だ。(『去人たち』をクリアしたのプレイヤーのかたは、こうした人物を他にも想起してもらえれば、わたしのこの節における結論をなんとなく予想すると思う)

 

「わたしは機械じゃない。だからこの指を切り落とすなんてことは絶対にしたくなかった。父も母もわたしの指を忌避し、そして瞽であることを忌避し、わたしを親切丁寧に社会から匿った。わたしは瞽だから指が六本あることになんの疑問も抱かない。みんなが五本の指しかもたないことも中学になるまで知らなかった。みんな、不具者であるわたしを差別感によって親切に接し身体的欠陥には触れないよう触れないように、頻りに気持ちの悪い配慮をしてきたせい。わたしの指がおかしいことに気付いた時にわたしは深い孤独に陥った」

__富絵

「『みんな、わたしをいじめた。あなたは仕合わせ。わたしだって仕合わせになりたい。わたしを愛して欲しい。わたしが誰か教えて欲しい。わたしを生かしてほしい。死にたくない。泣きたくない。悲しみたくない。苦しみたくない。みんなと一緒に笑いたい。わたしが彼を苦しめるなら今すぐに死んでしまいたい』わたしが言いました。それは不思議なことだと思う?」

__富絵

 

富絵にとって片目は重荷だった。それは、愛されないはずの自分を愛してくれる人物がいるという現実を富絵に突きつけたからだ。そのことは「見えている月の光は違う」と富絵が強調する部分から読み取れる。(富絵は指を切り離す前から人格が分離していたのかもしれない。愛されないのは自分のせいだとする自分と、愛されないのは他人のせいだとする自分がいたかもしれない。いわば富絵の指は復讐したのだ。自分に向いていた破壊の欲望が、分離したことで他人に向いたのだ。)そしてその突きつけは、富絵が指の骨を切り離す契機となる。

そうして富絵は、時間が止まってしまった存在として「俺」の前に現れる。 「俺」は偶々にも、“透き通っているかのように肌の青白い、薄命そうな少女” が富絵自身であることを読み、教える。富絵はそれを読むことで、分離した自身を回収する。

「俺」にとって時間が支離滅裂に感ぜられた理由は、はっきりいってわからない。今章のみだと論理的にはっきりしない。でも、もしかしたらこのような回答ができるかもしれない。「俺」の意識が、時間が止まってしまった富絵の意識と感応した。あるいは、只埜と感応したのかもしれない。なぜなら、富絵の表象は只埜のものだからである。止まってしまった時間は、他者に感応した「俺」の時間に貫入する。結果「俺」の時間は支離滅裂なものとなった。

或いは此の言い方もどうだろう__時間とは他者の数だけ存在する。そして時間は、他者と同じ長さを持っているわけでない。それはわたしたちの「現実」の進展に依存するものだからだ。

 

「でも十七年前も現実と同じように一年ある。あなたが一年を感じると同じだけの時間がね」

__富絵 

少女に時間などは関係ないのだ。認めたくない存在である。そして彼女は言っているのだろう。本当はこの世に時間など存在しないのだと。

__「俺」

 

時間の問題をやや投げやりに、時間が止まってしまったということでなにを表現しているのか考えてみたい。それは「生きていくための現実」が失われてしまったということだ。

無粋を承知して定義すると、「生きていくための現実」は、自身と他者に共通するコンテキストにおいて、一次的に成立している事実である。その機能は、自身の言行や認識を根源的に理由付ける。それはトラウマ的であるために、言語でそのすべてを語ることができないが、言語によって、テクストを読むことで接近することができる。

富絵のとっての「生きていくための現実」は、愛される自分という現実だ。なぜなら、愛されないはずの自分が愛されたとき、愛される自分という現実に耐えきれず、富絵は死んでしまったからだ。そのことは只埜も同じであり、迂遠な仕方で富絵の愛を確認した只埜は指を手放さず、死んだ。

生きていくための現実」と言いながら、富絵と只埜は死んでしまったではないか!と思ったかもしれない。それは正しい。なぜなら、「生きていくための現実」は、それを手に入れることが必ずしも生きていけることを意味しない。なぜなら、「生きていくための現実」は、無意識にそれを知りたくないがゆえに妄想で覆われているからだ。「生きていくための現実」に接近することは、それが受け入れがたいものであるから、否定、否認含みの接近となるからだ。

そして富絵と只埜は、片目と指の交換を通して自らの失ったものを取り戻した。その失ったものは、まさしく、それこそが「生きていくための現実」を象徴していたのでないだろうか。

理解しやすくするため構図化すると、富絵にとって片目は、愛される自分(という生きていくための現実)を否定する象徴だ。只埜にとって指もまた、愛される自分(という生きていくための現実)を否定する象徴だ。

そして、その交換が象徴的であるならば、一節で述べたテクストの構図に重なるのでないだろうか。「俺」によって読まれた富絵のテクストを只埜は読み、「俺」によって読まれた只埜のテクストを、富絵は読んだのである。

さて、長々とやってきた。これらのことから、わたしの今回の記事で主張したいことのふたつ目は次のことだ__わたしは誰もが口にしなかったから、もしかしたらと思って口をつぐんでいたけれども、やはりここまで来たからには書かなきゃいられない__『去人たち』の特徴的なモチーフ、あるいはテーマは、生きていくための現実を失いし者の悲哀だ。

富絵と只埜に限らず、『去人たち』の登場人物の多くは「生きていくための現実」を失っている実感を持っている。『去人たち』を駆動させる動力源は、「生きていくための現実」を失っていることに対する抵抗である。そして、その抵抗は、読みによって、あるいは読まれることによって、または読まれたテクストを読み返すことによって、登場人物たちはおこなうのである。

こうしてみると、こう書いたら怒られるかもしれないが、「秋日狂想」はただでさえエモい『去人たち』のなかでも、全体から際立ってエモい__愛されないと思っていた人たちが、愛し合うことですれ違って、愛を確認して死んでしまうのだから!

 

さて、なんとなくいい所まで来たと思うので、まとめてみよう。

「去人たちにおいて表現されていること、そのひとつ目は、探索としてテクストを読むことである。読むことによって、あるいは読まれることによって、または読まれたテクストを読み返すことによって、登場人物たちが現実や意識を探求するさまが表現されている。またふたつ目は、「生きていくための現実」を失いし者たちの悲哀である。「秋日狂想」においては富絵と只埜が「生きていくための現実」を失いし者たちとして描かれ、彼らは象徴的な交換=テクストを読み合うことによって、「生きていくための現実」を取り戻そうとした。この構造は『去人たち』を貫いて表現されていると考える」

以上!

 

 

 「真実を知っているみたいに、正しいことを、ただ正しいという理由であたしたちに押し付けないでよ!
あたしたちが欲しいのは決められた真実なんかじゃない!
生きていくための現実なのよ!」 

__『去人たち』「つみびとをして」東久邇翠子

 

 

 

 

 

 

ここからネタバレおわり_____________________________________

 

 

 

 

 

 

補遺・自己批判__さて、本当にこれが『去人たち』で表現されていたことだったろうか?

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去人たち/K2Cee

今記事の読みの問題のひとつは、印象的でテーマ主義であることだ。テーマを抜き出すことは、自己の投影と表裏一体である。だから、結論が妥当かどうかは全くわからない。もうひとつの問題は、暗黙に精神分析の方法を使用していることだ。くわしい人は語彙からよくわかったと思う。さらにもうひとつの問題は、部分から抜き出した要素が『去人たち』全体に当て嵌まるのか、そしてその要素は『去人たち』だけが特異に表現していることなのか検討できないことだ。

だからわたしが求めている反応は今記事を『去人たち』読解への叩き台としてつかっていただくことだ。

言い訳として、わたしはテーマ主義の読み方をあえてするしかなかった。

『去人たち』の記事は、いまインターネットアーカイブからどんどん見えなくなっている。

誰かが書かなければ『去人たち』が忘れられないかという不安がある。

そして『去人たち』の試みが理解されないものとして理解されてしまうかもしれない悲しみがある。

理解されないのはもしかしたらもっともな反応かもしれない。

しかしそこで意味を受容したわたしが存在する。

たしかに存在するのか? 

ああ、ああ、そういうことだったのか歌穂。

わたしたちも上手に去ることができませんでしたよ。

 

 (終)

 

@goodbyewoosiete