一日だけ日記を書く試み__2020年8月3日(月)

母親に呼びかけられ9時頃に目覚める。

曾祖母がそろそろとのこと。

いまだ半夢中。

きのうは労働に従事したのでなかなか疲れていた……のだけれども……

えっ、あ、そう……

それは……

思考より体が優先し、猛暑の中で車に乗り、緑草と青空を横目に長々と揺られ、或る日陰に差し掛かると病院へ着いていた。

病院の待受では母親の幼馴染がコロナウイルス対策の確認として出迎え、よくわからない会話をした。「えっあなた(母親の名前)のお兄ちゃん? うわー、誰に似たの?」「この家族で誰にも似たくありません……」思わず口に出たが笑ってもらえた。

曾祖母はベッドで眠っていた。かつて老人ホームで介護されていたが、昨日から目と口が開かないとのことで病院に搬送された。そして医者から祖母へ通告。それを母が聞く。そんな経緯。「あそこの病院は老人が最後を迎える場所」と母親から聞いていたのもあって、病室の陰影は陽光で翳った墓石のようだった。曾祖母が最後に眠る場所としてはわたし好みに過ぎる風景だったので、ちょっと後ろめたさを感じつつ、心の中でシャッターを下ろした。親しい人間の最期を描いた画家は少なくない。この風景をだれかが描くとしたら、うーん、ハマスホイに頼む。

 

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ヴィルヘルム・ハマスホイ『陽光、あるいは陽光に舞う塵』 (1900)

 

面会は、事も無げに終わった。寝ている曾祖母に、母親が呼びかける。曾祖母は、寝ているのか無視しているのか返事をしない。約束の10分は単純にやってきた。おそらくわたしと曾祖母の最後のナマの対面となった。心惜しくなかった。どんな現在も、どうあがいても過去になるから。

12時過ぎに祖母の家へ着く。病院の近くだったので寄った。あいかわらずの大きな家の大きな玄関に着くと、わたしは飼い犬(以下、「おれ」と表記する)をしつけた。おいおれ、おしっこすんなよ。先客として親戚がリビングにいた。顔も知らず年齢も遠く離れた親戚たちだが、おれのおかげで滞りなく会話できた。おれはしっぽを振りまくる!それはまるで会話の風見鶏だ!ビション・フリーゼは世界一かわいいイヌだ!

し∵J ←おれ

おれが愛想を振りまいている隙に、リビングから離脱する。久しぶりの祖母の家だったので、ちょっと探索してみたくなった。すると、曾祖母の部屋に出くわした。

曾祖母の部屋は整理されていたが生活感をもっていた。調度品が壁に寄せられ、部屋の真ん中になにもない空間ができていた。まるで、曾祖母が老人ホームに移住して間もない様だった。曾祖母は齢100近くだったあの頃でも、編み物や絵などものして器用さを保っていたし、思考や物言いから老いを感じさせなかった。老人ホームへの移住が決まった時、曾祖母は激情をもって抵抗したらしい。その事情はよくしらなかったが、あの柔らかい態度から想像ができなかった。

部屋主のいない部屋に足を踏み入れると、隅にあった箪笥にわたしの名前を発見した。小学校の入学式の名札が掛かっていた。そして幼いわたしの写真があった。曾祖母と写っていた。わたしの名前と顔はそこかしこにあった。老人ホームにいた時の曾祖母は、わたしの存在を忘れていた。わたしの名前も分からなかった。だけれども、わたしをみて泣いていた。誰だかわからなくてごめんねえ。そう言われてわたしは笑った。愛の幸福な結果は愛の対象を忘れることなのだ。忘れられるだけわたしは愛されていたのだ。そしてその愛の証左として、わたしの存在を表す記号が彼女の部屋にあるのだ。

部屋のクローゼットには衣装がしまっており、その奥に人ひとり入れる空間があった。幼いわたしはしばしばそこに隠れた。曾祖母は必ずわたしを見つけた。懐かしく思ったのでそこに入った。かくれんぼが好きだ、昔も今も。行方不明になってみたい。幼少からそう思っていた。痕跡だけ残して、気になった人が鬼になってくれればいい。若しくは鬼もいらない。人生はひとりかくれんぼ。満足したので曾祖母の部屋を出た。

帰り道、母親はあの親戚のうるるさについてうるさく話した。会話に出てくる親族は母方の親族ばかりだなと思ったが、そもそも父方の親族は死ぬか行方不明になっている人物ばかりだった。そして行方不明になっている方が多い。なんだ、わたしの運命はもう書かれているじゃないか。お母様、ご心配なさらず。あなたの面倒は弟が見ますので。何いってんの、誰からも面倒見られるなんてごめんだわ。そう言って母親はうるさく話し続けた。

夕方に帰宅すると、世界一かわいいイヌ、ビション・フリーゼのおれは、わたしにびっちりくっついてきた。おれは散歩に行きたいらしい。すまないがどっと疲れたのだと自室でわたしがベッドに横になるやいなや、おれはベッドに飛び乗ってびっちりくっついてきた。そしておれは寝息を立てた。そろーっとベッドから離れて自室を出ていこうとすると、ベッドでおれは屹立としていた。抗議の姿勢だ。

そのうち雨が降った。おれは雨をいやがるナイーブなイヌなので、もうすっかりうなだれていた。今日は散歩をやめとこう。そうだ今日も日記を試してみよう。その思い付きでキーボードを叩き、小一時間で22時に至っている。この後はなにも考えていない。

@goodbyewoosiete