『去人たち ZERO Div1』が11月9日に公開された。もちろん私は即プレイした。
全私から称賛のコメントが寄せられているっぽいので、ここでその一端を軽く紹介しよう。
地獄のようなゲームだ。
__benza kaba
Steamは黄金を手放した。彼らにはこれが糞に見えていた。
__nikaisine games
このゲームのせいで、オレは今、完璧に、エンパイアステートビルなんかより完璧に勃起している
__watanabe
俺たちの去人たちマンが帰ってきた。が、すぐどっか行った。
__べんざカバー
ふざけるのも大概にして、以下まじめにふざけながらネタバレしよう。
『去人たち ZERO Div1』(以下『Div1』)は、リプレイ不可能になって終了する。それはあまりに唐突で渠ららしい鮮烈な切断だ_私からするとラカンの短時間セッションを彷彿とさせる。分析主体が核心に一歩迫ったところでぶった切る鬼畜な所作だ。
そんな今作は前作『去人たち ZERO -Prologue- 』(以下『プロローグ』)の続編となっている。
しかし、前作からの直接的な続きを感じさせる展開はほぼなく、遠回りという印象を私は受けた。
今回の記事では、『Div1』の続編要素を中心に、ゲームをいろいろと顧みてみようと思う。
※なお今回はゲームの性質上リプレイしていないため記憶を参照して語ることになる。
間違っている箇所があれば、コメントで突っ込んでいただけたらうれしい。
○次長
人気キャラ次長が登場した気がする。いやあれは次長だろ。
「鈴木佐藤」だか「佐藤鈴木」だか。見た目はずいぶんと若い。
ここから想像できることは、作中の時間内が『去人たち ZERO -Prologue- 』より一回り前だということだ。
『プロローグ』では、次長(もちろん左の人物)が登場する。『去人たちⅠ』の二年前ということもあって、容貌にたいした変化はない。
しかし、『Div1』で登場する次長はどうみても若かりし頃という風体だ。現場に直接姿を表すことから『去人たちⅠ』のようにデスク組をやっているわけでもないかもしれない。
このことから『Div1』は『プロローグ』よりも更に数十年前の物語であることが想像される。
○薗村
『Div1』には薗村という人物が何人か登場する。
一人目の薗村は精神科医の男であり、今回の(恐らく)主人公の穂叢の上司であり、かつての主治医だ。
二人目の薗叢は、何らかの病状で入院している患者の薗村○○号である。薗村○○号は、下の動画では59号として登場している。
うろ覚えで書くが、上の動画で登場する「薗村59号」はたしかゲームで登場していなかった気がする・・・59号でなく、6x号だった気がする。ゲームが進むたびに、薗村○○号のパートは数字が進んでいたような。
さて、『Div1』の薗村は『去人たちⅡ』の園村歌穂の父親であると想像される。その決め手は精神科医で同じ苗字だからというわけでもなく、立ち絵の立ち姿がそっくりだからだ。ポケットに手を突っ込み半身だけをみせている。おまけに金眼。これはもう、お父様と呼ばせてください。
であれば、近未来的な病院で入院生活を営む薗村○○号とはどういう存在なのだろうか。また歌穂と父親の関係とは何なのだろうか。歌穂にかんしては過去や父親への愛憎が『去人たちⅡ』で表現されているが、父親はいっさい過去作に登場しない。今後の展開が待たれる。
○兄と妹
『Div1』では、兄と妹の近親相姦的関係というモチーフが印象的だ。穂叢、渡部(兄妹?)、ヤマとヤミーだ。
『去人たちⅠ』では大神兄妹が登場している。この兄妹は色々あって最終的に兄が妹を害するという経緯を辿るが、穂叢は煉獄にて妹を犯してしまった罪悪感に苛まれている(しかし薗村によればそういった関係の事実はないとかでよくわからない)。
『プロローグ』ではブルバッハとセレンが兄妹として登場している。ブルバッハが死ぬが、この二人は他の兄妹と違って呪わしき関係として描写されているわけでもない。
○渡部(兄妹?)
えっ、、、ワタナベ? ワタナベじゃないか!みなさん!
ワタナベといえば『プロローグ』の
・未成年飲酒
・厨二病
・ケイちゃんという可愛いパートナー持ち
・斑猫というイケおじに愛されすぎて眠れない
・15歳
・イスラエルの戦車
以上要件のアイツですよ!
実をいうとべんざカバーは大神よりもワタナベのほうが登場人物として好きでした。かわいいので。
とまあそれは置いておいて、『Div1』では渡部がふたり登場するってことでいいんだよね? 渡部琴心と、渡部のかた(名前忘れた・・・)。
実をいうと私がいちばん曖昧になってる部分はここで、名前だけ出てきてどういう関係だったのか、プレイしたときからあんまりしっくりきていないので、もしプレイした方、これからプレイする方がいらっしゃいましたら、ここのコメントでいいので教えてください。
閑話休題。
さて『プロローグ』のワタナベと今作の関係とは何なのだろうか。『プロローグ』のラストにてワタナベは斑猫を追いかけるため仮想空間へダイブする展開になっていたが、今作ではその続きが示唆されているような情報が見受けられない。
もしかするならば、下の画像が答えなのだろうか。
つまりプレイヤーがワタナベの主観を体験しているのが『Div1』ということなのだろうか。でも正確にいうなら、これはワタナベを観察しているケイの視点なのだろうか。それにしても『Div1』っていいタイトルだと思う。Dive, Division, Divineなど、様々な英単語が思い浮かぶ。
○ヤマとヤミー
『Div1』の序盤にはヤマとヤミーが登場する。ヤマは煉獄で死者を地獄に見送っている。一方でヤミーはあらゆる文献や記録を管理しておりそれらの引用で会話する。
ここにも、私が印象的だった去人たちのモチーフが描かれている。それは間テクスト性という地獄である。
『去人たちⅡ』で「すべてはもう書かれていることなの。」と歌穂は独白する。恐らくそれには二つの意味がある。
一つ目の意味はノベルゲームのテキストとして運命が定められている登場人物の実存的な悩みだ。『去人たちⅡ』のマニエラ患者たちは、自分たちの表面意識が読者が目にするテキストボックスに並んでいることを知悉しており、またそのテキストによって自分たちの生死が決まっている事さえ分かっている、ように表現されている。まあその辺は猫箱ただひとつ氏の素晴らしい記事でも読んだらいいと思います。
そして、二つ目の意味は間テクスト性という概念をネガティブに捉えたものである。間テクスト性を大雑把に言えば、あらゆる文章を他の文章の引用や影響の元にあると捉えて、ある作品を他の作品との関係性を重点において見るという視座である(というふうに記憶している。はっきりとした概念はジュリア・クリステヴァさんにきいてね♪) 俗っぽくいえば、私たちの発する言葉はすべて誰かの借り物であるということだろう。そこで問題は、オリジナルなテクストや言葉とは何か、ということである。もっといえば、言葉はどこからきたの?なんなの?どこいくの?という問題にぶつかる。そうなると、私たちは言葉を使用しているが言葉に使用されている_つまり言葉が新しい意味を獲得するために私たちを使役しているという逆転発想が獲得されるかもしれない。
となると、歌穂の「すべてはもう書かれていることなの。」というテキストは「私たちは言葉によって主体性を奪われている」というふうに読み替えられる。歌穂たちは、そうして虎に貪り食われ死んだ、ように見える。
この読み替えから、次のような二項対立のテーマを導出してみよう。「定められた自由あるいは定められたオリジナリティの外部は無あるいは死である。」このようにテーマを表現するならば、『去人たちⅡ』のみならず今回の『Div1』にもそのテーマが通底しているような気がする。
『Div1』の序盤は、男(穂叢)がヤミーを犯して罪悪感に苛まれた結果として地獄行きを決断する。男の決断のきっかけはヤミーが妹のセリフを引用したことだ。
ヤミーの引用によって自身が煉獄へ来る前と変わらない行動を取っていたことに男は気付かされる=つまり自分の行為は過去の自分の引用でしかなかったことに男は気付くのである。あまつさえそれは妹を犯すという行為の引用だ(それが本当にあったことなのかは分からないが)。
彼は地獄に行くことで自由を捨てる。地獄に行ったほうがありもしない自由に惑わされず済むし、地獄に行くことが引用から逃れる方法かもしれないからだ。しかしそう考えることがすでに地獄的な状況である。そしてそれを促した人物が、存在するテクストのなかでも数多く引用されたであろう神話の登場人物ということが皮肉めいている。
また、このテーマは穂叢だけでなく作中の〈モブ〉たちの状況にも適用される。「新型コタール症候群」を病んだ作中の〈モブ〉たちは、自分が自分であるということに耐えられず、自分を引用して捏造し、最後は否定する。そんな〈モブ〉たちを見て、人々は〈モブ〉=オリジナルな存在じゃない、ということを否定するために行動化する。
いや、それはそう読むからだろ、と申される方もいらっしゃるかもしれませんが、
でも私は読むことは地獄でない、とはっきり言える自信がないのです。
もはや物理的に読むことの難しいこの物語を記憶でなぞると地獄巡りになってしまうという不思議。
なので私ははじめに「地獄みたいなゲーム」と申したわけです。
めいめい語ってしまって長くなってしまったが、この節の最後に付け足すこととして、私が『去人たち』をとても好きな理由は、たとえ「自由/死あるいは無」であるとしても、『去人たち』は「去ること」というフィクショナルな要素で、この二項対立を「?/死あるいは無」というふうに異化させているところです。
ぜひとも穂叢には「去ること」に挑戦し、敗北していただきたいと願っています。
インド神話の人物が登場したということで、私は『去人たちⅡ』のエンディングを思い返していた。
いまは普通にユーチューブで見れるが、『去人たちⅡ』のエンディングには音ゲーの仕掛けがあって、高得点を取ると伴奏が流れている間に次作の登場人物のラフ画が見れたのだ。
エンディングでは『去人たちZERO』にयुसुथिनという人物が登場することがほのめかされている。私はインドの言語に全く明るくないので、グーグル翻訳に頼った。マラーティー語でयुसुथिनは日本語で「ユスティン」というらしい。ほんまか?
なんとなく似てるからセイヒアかなと思ってたが、本作をプレイするとヤミーが呼ばれたい名前かなとか思った。
今後の登場に期待。
○おわりに
続編の要素だけたどるつもりだったが、長くなりすぎ、マニアックになりすぎた。普通に考察記事みたいになってしまった。まあ、いいか。
????(わからなくていい人)から「去人たちの幻想を解体しなければならない」とよく聞かされましたが、私は本作によって常に何かを考えていなければならないという、いわば強制思考を押し付けられ、不眠を引き起こし、正常な判断が奪われ、よりその電波の支配下に置かれることになりました。俺は確かに気は確かでない。だがそれは今だからだ。当時、モブに毒薬を持ったのは俺ではない。え?あ?入院したほうがいいだって?策謀だ。全部でっち上げだ。なんで俺が去人たちの新作を終わらせなきゃいけないんですか。俺の右手が問題だというんですか。神の電波のことが問題というならいつだってそれを放棄する準備が出来ていますクソッタレな神だあらゆる宇宙のことを知っていて俺に指示してくるクソッタレな神だそんな神ならいらないもし右が怪しいってんならくれてやりますよすぐにでも次回作をお待ちしております!