父の人生

 四月の後半、ヒノキ工作板で父親の名前を入れた表札を作っていた。

 それは母親に頼まれたものだった。

 いや母上は習字一級持ってるんだから母上が作ったほうがよくないですか? と言ったが、あんたが作るからいいのよと言われた。

 制作は仕事や趣味の合間にちょこちょこと行われて、想定するより早く終わった。あら上手いじゃんと言われて、見たかこれが習字一級の血筋だ。と返した。

 そのころ父親は既に入退院を繰り返していて、最期まで当人がそれを見ることはなかった。

 それを飾るとしても、もう飾れない。見せられない。笑ってんだか笑ってないんだか分からん顔でありがとうも言わない父親に、いやさあと毒づく未来がやってこなかった。

 そういうことが多すぎて、また多すぎるだろうと予想つかなくて、本当に愚かだった。父親も愚かだったが、同じくらい私も愚かだった。

 

『イディオッツ』(1998)

 本当に?そうか?

 この映画『イディオッツ』は、一観点から不幸ともいえるラストを辿るわけで、したがってこのセリフに私は未だにイエスともノーとも言えず、だからこそ気になるテーゼで在り続けている。

 愚かでも賢くなくとも、何かを肯定しようとする愚鈍な態度こそが素晴らしいのでないだろうか。私の結論としてはこうだ。そうなると、政治的な観点ではポピュリズムだのファシズムだのと色々な言葉が思い浮かぶから留保したくなる。だが、それほど間違ってもいないのではないだろうか。

 極端な話、バカでなければ何もできない、のだ。これを読んでる皆さんも「あのときの自分バカだったな」自慢をした覚えはないだろうか。ないと言える者だけが監督のラース・フォン・トリアーに石を投げなさい。いややっぱり痛そうなのでやめてください。そもそもそれでバカ正直に石を投げるヤツもバカなので、裸の王様だ。

 そう、人間みな裸の王様であるとしよう__私も、私の父親も、君もだ、兄弟よ。

 そしてここにもう一人、有名な裸の王様を召喚しよう。

 彼の名は愛新覚羅溥儀。そう、『ラストエンペラー』だ。

 

ラストエンペラー』(1987)

 実は、私はこの映画を週末にはじめて見た。坂本龍一が亡くなったのでセレクトしたのも多少あるが、純粋に私は満州ネタが好きなのであって、満州の歴史を好む人間がまだこれを見ていないとは何事なんだ?と思ったので見たわけだ。

 面白かった。

 なぜなら、私はこの映画について自分の父親を見ているように錯覚させられたからだ。

 

 

 私の父親、司は北海道の辺境にある孤島で生まれた。司はとても可愛がられたらしい。たしかにアルバムを見ているとそう見える。司の一家はその孤島で映画館や旅館を営んでいたらしく、まあ裕福ともいえる社会階層にいたのだという。

 しかし、映画館が出火によって全焼し、残りの建物もなんやかんやで立ち行かなくなってしまったことによって、一家は多額の借金を抱え社会階層を転げ落ちた。司いわく「ご飯に砂糖をかけて食べた」という。

 そのこともあってかなお一層、司はかわいがられた。たしかに、父方の叔母や祖母をみて「ローマ皇帝を寵愛する母親みたいだな」と思ったことは未だに印象に残っている。まあ彼女らも亡くなっているので好き放題言えるのだが。

 いや、なぜそうやって親族を好き放題言えるんだよ。と思ったあなたは慧眼だ。

 なぜなら、私はそういうふうに聞かされて育ったからだ。

 あいつらはね、お父さんを駄目にしたんだよ__私の母はしばしばそう語ったが、彼女にはそう形容する権利がある。

 なぜなら、その駄目な司に騙されて結婚した人物が私の母だからだ。

 私の母はいわゆるバリキャリで、それはもうバリキャリとして、名前を出せば誰でもわかるような企業でバリバリに働いていたらしく、同じくバリバリに働いているバリバリな彼氏がいたのだが、そのバリバリと結婚することができなかった。私の祖父がそれを許さなかったからだ。母は悲しんだ。

 祖父は母にお見合いの相手を紹介した。それが司だった。母は「まあ真面目そうだしいっか」と思ったらしい。それから母は、司の両親の健康状態が良好であることを条件として提示した。司とそのローマ皇帝の母たちはイエスと答えた。

 しかしそれは真っ赤なウソだった。母は、病気に冒された司の両親たちを結婚当初から介護する羽目になった。ローマ皇帝の母は脳梗塞を患っており、その夫も同じく病気を患っていた。しかもウソは、一つだけでなかったらしい。母はことごとく騙された。小さいころ、母と叔母がなんだか剣呑な雰囲気だったことを私は覚えている。

 また、甘やかされ可愛くてごめんの司は、母にとってお見合い時と全く印象の違う相手だった。母によれば、父は「何の趣味も持たず、ただテレビだーけ見ている男」だった。仕事さえ行っていればいいという態度をみせ、極度の口下手から会話すら成立しない。帰ってきたらテレビのみにのめり込み、母を無視する。当時はまさに家父長制と語られる家庭構造が尾を引いており、母は仕事をやめていた。父は、中間階級の玉座に座していた。

 そこに私が生まれた。

 私は、こうして母による父への悪口を浴びて育った。ああなっちゃ駄目だとか、お父さんそっくり(笑)だとか。だからなのか、やたらと言葉で表現することを要求されたし、家事全般の手伝いを要求された(フランソワーズ・ドルトという精神分析家の精神分析に似ている)。「子どもは親の背中を見て育つ」という言葉が、母からしてみれば恐ろしかったのだろう。

 幼い頃の父との交流も、なんだかぎこちなかった。言葉をかけてもらったという体験がひとつもない。会話を試しても、ああ?とかあ?とかしか返ってこない。幼心ながら何だこいつと思ったことは数え切れない。それほどまでに父のコミュニケーション能力は無に等しかった。事実、それが原因で仕事を馘首にされている。上司となった年下の若者に、とても社会人とは思えない態度を取ったという。それをこっそり教えてくれた父の友人も、私たちの家で会話皆無の時間を過ごしてから以来、全く来なくなった。父の両親が没した時も、遺産分配で揉めた結果、私たち一家に一銭も渡らなかった。幾度も隣人トラブルの原因のきっかけも、父が作ったものだった。このようなキチガイエピソードを挙げるときりがないので切る。とにかく、父はその致命的なコミュニケーションスキルで周囲との断絶を作っていた。

 中学へ進級し、みなが母と父がどうのこうという話題をして、どうやら私の家庭は、あまり普通でないケースなのだな、と自覚したのだった。もちろん私の家庭よりもっと特殊な家庭のケースなんかいくらでもあるし、同じようなケースだっていくらでもある。しかし、子どもの育ち方というのはどれも一様でない。みな自分なりに現実を止揚しているはずだ。私はそれを信じているから、こうしてブログにこの文章を書いている。

 会話をしない。仕事をしない。趣味もない。皇帝風にあだ名をつけるならば、玉座にてテレビを視聴さる“寡黙帝”司。今思えば、私の存在は結婚生活当初にまだあった二人のコミュニケーションの賜物なのだろう。

 私はそんな父が、なんとなく気になっていた。

 父は幼い私の頭を洗ってくれたし、車に載せてどこかへ連れて行ってくれた。母が家にいないときは子どもの自分よりヘタクソな朝食を振る舞ってくれたし、そして何よりその眼差しから愛情を感じた。言葉はなくても、それはわかった。

 子どもながら何回も母の悪口に対して反論を試みたこともあったし、母の言うことにしか一理ないと何回も納得した。しかし、それでも私にとって父は父だったし、母は母だった。私はその二項対立の現実を止揚することを求められた。

 だから私は、父に似たくないし母にも似たくないと思いながら毎日を過ごした。結果、母親からは何を考えているんだか分からない人間という箔を押され、岡田斗司夫のオタクの息子で困っていますだかそんなタイトルの本を目の前で読まれてしまうのだった。

 

 

 時が経ち2023年5月、父が入院していた頃、『ラストエンペラー』を見た。父の人生って一体なんだったのだろう、と思った。最初から最後まで、誰かの代わりとして生きることを強制された溥儀。帝座を追われ、これまでの自分の人生がウソでしかなかったという告白を強制された溥儀。孫文という、自分の代わりとなるような帝王が君臨するさまを眺めた溥儀。

 自分の人生が誰かの代わりでしかなかった、だなんて、そんな事あるわけがないだろう。少なくとも、私はそういう言葉を口にする人間をあまり信じない。「でしか」「なかった」なんて、論理的には死んだ人間が言わなければ正しくないだろう。

 だが、そう見えてしまうことだってある。何より、そう言えることがフィクションの条件だと思う。誰かの代わりを体験できるのがフィクションだからだ。

 もっと言えば、口下手な人間はそれを口にする術すら持たないのだ。少なくとも私の父はそんな事を全く言わなかったし、溥儀も言わなかった。だから今一度問うが、父の人生は何だった?誰の代わりだった?なぜ生きた?それに答えられる人間はいるのだろうか。いや、もう誰もいない。そこには断絶がある。

 だから私は、こうしてブログにて父の人生について触れ、あなたがたに少しでも私の父を知ってもらおうと試みているわけです。

 父の人生は何だったと思いますか?

 

 

 どんなにアホでバカでキチガイの父親でも、それは一人しかいない。アホでバカでキチガイの私がそのことに気付いたのは亡くなったあとでした。

 2023年5月24日11時23分、病院で父は亡くなりました。肺気腫の合併症です。最期の一ヶ月は私が通院の付き添いで父を車椅子で押していました。病院を移り、医師から良くなるかもしれないという話をされ、でも祖父母の件もあったんだからちゃんと遺言のこせよと念を押し、相変わらず返事がなくて、色々これからだと思った矢先、誰の想定よりも症状が重たかったらしく、突然亡くなりました。どんなに何をしようと後悔は残るものだと思いますが、その残り物はあまりに多すぎました。父は愚かなやつでしたが、私も同じくらい愚かだったと思います。

 しかし、私が愚かだった理由は、それほど愛されていたからだと信じています。

@goodbyewoosiete