父の人生

 四月の後半、ヒノキ工作板で父親の名前を入れた表札を作っていた。

 それは母親に頼まれたものだった。

 いや母上は習字一級持ってるんだから母上が作ったほうがよくないですか? と言ったが、あんたが作るからいいのよと言われた。

 制作は仕事や趣味の合間にちょこちょこと行われて、想定するより早く終わった。あら上手いじゃんと言われて、見たかこれが習字一級の血筋だ。と返した。

 そのころ父親は既に入退院を繰り返していて、最期まで当人がそれを見ることはなかった。

 それを飾るとしても、もう飾れない。見せられない。笑ってんだか笑ってないんだか分からん顔でありがとうも言わない父親に、いやさあと毒づく未来がやってこなかった。

 そういうことが多すぎて、また多すぎるだろうと予想つかなくて、本当に愚かだった。父親も愚かだったが、同じくらい私も愚かだった。

 

『イディオッツ』(1998)

 本当に?そうか?

 この映画『イディオッツ』は、一観点から不幸ともいえるラストを辿るわけで、したがってこのセリフに私は未だにイエスともノーとも言えず、だからこそ気になるテーゼで在り続けている。

 愚かでも賢くなくとも、何かを肯定しようとする愚鈍な態度こそが素晴らしいのでないだろうか。私の結論としてはこうだ。そうなると、政治的な観点ではポピュリズムだのファシズムだのと色々な言葉が思い浮かぶから留保したくなる。だが、それほど間違ってもいないのではないだろうか。

 極端な話、バカでなければ何もできない、のだ。これを読んでる皆さんも「あのときの自分バカだったな」自慢をした覚えはないだろうか。ないと言える者だけが監督のラース・フォン・トリアーに石を投げなさい。いややっぱり痛そうなのでやめてください。そもそもそれでバカ正直に石を投げるヤツもバカなので、裸の王様だ。

 そう、人間みな裸の王様であるとしよう__私も、私の父親も、君もだ、兄弟よ。

 そしてここにもう一人、有名な裸の王様を召喚しよう。

 彼の名は愛新覚羅溥儀。そう、『ラストエンペラー』だ。

 

ラストエンペラー』(1987)

 実は、私はこの映画を週末にはじめて見た。坂本龍一が亡くなったのでセレクトしたのも多少あるが、純粋に私は満州ネタが好きなのであって、満州の歴史を好む人間がまだこれを見ていないとは何事なんだ?と思ったので見たわけだ。

 面白かった。

 なぜなら、私はこの映画について自分の父親を見ているように錯覚させられたからだ。

 

 

 私の父親、司は北海道の辺境にある孤島で生まれた。司はとても可愛がられたらしい。たしかにアルバムを見ているとそう見える。司の一家はその孤島で映画館や旅館を営んでいたらしく、まあ裕福ともいえる社会階層にいたのだという。

 しかし、映画館が出火によって全焼し、残りの建物もなんやかんやで立ち行かなくなってしまったことによって、一家は多額の借金を抱え社会階層を転げ落ちた。司いわく「ご飯に砂糖をかけて食べた」という。

 そのこともあってかなお一層、司はかわいがられた。たしかに、父方の叔母や祖母をみて「ローマ皇帝を寵愛する母親みたいだな」と思ったことは未だに印象に残っている。まあ彼女らも亡くなっているので好き放題言えるのだが。

 いや、なぜそうやって親族を好き放題言えるんだよ。と思ったあなたは慧眼だ。

 なぜなら、私はそういうふうに聞かされて育ったからだ。

 あいつらはね、お父さんを駄目にしたんだよ__私の母はしばしばそう語ったが、彼女にはそう形容する権利がある。

 なぜなら、その駄目な司に騙されて結婚した人物が私の母だからだ。

 私の母はいわゆるバリキャリで、それはもうバリキャリとして、名前を出せば誰でもわかるような企業でバリバリに働いていたらしく、同じくバリバリに働いているバリバリな彼氏がいたのだが、そのバリバリと結婚することができなかった。私の祖父がそれを許さなかったからだ。母は悲しんだ。

 祖父は母にお見合いの相手を紹介した。それが司だった。母は「まあ真面目そうだしいっか」と思ったらしい。それから母は、司の両親の健康状態が良好であることを条件として提示した。司とそのローマ皇帝の母たちはイエスと答えた。

 しかしそれは真っ赤なウソだった。母は、病気に冒された司の両親たちを結婚当初から介護する羽目になった。ローマ皇帝の母は脳梗塞を患っており、その夫も同じく病気を患っていた。しかもウソは、一つだけでなかったらしい。母はことごとく騙された。小さいころ、母と叔母がなんだか剣呑な雰囲気だったことを私は覚えている。

 また、甘やかされ可愛くてごめんの司は、母にとってお見合い時と全く印象の違う相手だった。母によれば、父は「何の趣味も持たず、ただテレビだーけ見ている男」だった。仕事さえ行っていればいいという態度をみせ、極度の口下手から会話すら成立しない。帰ってきたらテレビのみにのめり込み、母を無視する。当時はまさに家父長制と語られる家庭構造が尾を引いており、母は仕事をやめていた。父は、中間階級の玉座に座していた。

 そこに私が生まれた。

 私は、こうして母による父への悪口を浴びて育った。ああなっちゃ駄目だとか、お父さんそっくり(笑)だとか。だからなのか、やたらと言葉で表現することを要求されたし、家事全般の手伝いを要求された(フランソワーズ・ドルトという精神分析家の精神分析に似ている)。「子どもは親の背中を見て育つ」という言葉が、母からしてみれば恐ろしかったのだろう。

 幼い頃の父との交流も、なんだかぎこちなかった。言葉をかけてもらったという体験がひとつもない。会話を試しても、ああ?とかあ?とかしか返ってこない。幼心ながら何だこいつと思ったことは数え切れない。それほどまでに父のコミュニケーション能力は無に等しかった。事実、それが原因で仕事を馘首にされている。上司となった年下の若者に、とても社会人とは思えない態度を取ったという。それをこっそり教えてくれた父の友人も、私たちの家で会話皆無の時間を過ごしてから以来、全く来なくなった。父の両親が没した時も、遺産分配で揉めた結果、私たち一家に一銭も渡らなかった。幾度も隣人トラブルの原因のきっかけも、父が作ったものだった。このようなキチガイエピソードを挙げるときりがないので切る。とにかく、父はその致命的なコミュニケーションスキルで周囲との断絶を作っていた。

 中学へ進級し、みなが母と父がどうのこうという話題をして、どうやら私の家庭は、あまり普通でないケースなのだな、と自覚したのだった。もちろん私の家庭よりもっと特殊な家庭のケースなんかいくらでもあるし、同じようなケースだっていくらでもある。しかし、子どもの育ち方というのはどれも一様でない。みな自分なりに現実を止揚しているはずだ。私はそれを信じているから、こうしてブログにこの文章を書いている。

 会話をしない。仕事をしない。趣味もない。皇帝風にあだ名をつけるならば、玉座にてテレビを視聴さる“寡黙帝”司。今思えば、私の存在は結婚生活当初にまだあった二人のコミュニケーションの賜物なのだろう。

 私はそんな父が、なんとなく気になっていた。

 父は幼い私の頭を洗ってくれたし、車に載せてどこかへ連れて行ってくれた。母が家にいないときは子どもの自分よりヘタクソな朝食を振る舞ってくれたし、そして何よりその眼差しから愛情を感じた。言葉はなくても、それはわかった。

 子どもながら何回も母の悪口に対して反論を試みたこともあったし、母の言うことにしか一理ないと何回も納得した。しかし、それでも私にとって父は父だったし、母は母だった。私はその二項対立の現実を止揚することを求められた。

 だから私は、父に似たくないし母にも似たくないと思いながら毎日を過ごした。結果、母親からは何を考えているんだか分からない人間という箔を押され、岡田斗司夫のオタクの息子で困っていますだかそんなタイトルの本を目の前で読まれてしまうのだった。

 

 

 時が経ち2023年5月、父が入院していた頃、『ラストエンペラー』を見た。父の人生って一体なんだったのだろう、と思った。最初から最後まで、誰かの代わりとして生きることを強制された溥儀。帝座を追われ、これまでの自分の人生がウソでしかなかったという告白を強制された溥儀。孫文という、自分の代わりとなるような帝王が君臨するさまを眺めた溥儀。

 自分の人生が誰かの代わりでしかなかった、だなんて、そんな事あるわけがないだろう。少なくとも、私はそういう言葉を口にする人間をあまり信じない。「でしか」「なかった」なんて、論理的には死んだ人間が言わなければ正しくないだろう。

 だが、そう見えてしまうことだってある。何より、そう言えることがフィクションの条件だと思う。誰かの代わりを体験できるのがフィクションだからだ。

 もっと言えば、口下手な人間はそれを口にする術すら持たないのだ。少なくとも私の父はそんな事を全く言わなかったし、溥儀も言わなかった。だから今一度問うが、父の人生は何だった?誰の代わりだった?なぜ生きた?それに答えられる人間はいるのだろうか。いや、もう誰もいない。そこには断絶がある。

 だから私は、こうしてブログにて父の人生について触れ、あなたがたに少しでも私の父を知ってもらおうと試みているわけです。

 父の人生は何だったと思いますか?

 

 

 どんなにアホでバカでキチガイの父親でも、それは一人しかいない。アホでバカでキチガイの私がそのことに気付いたのは亡くなったあとでした。

 2023年5月24日11時23分、病院で父は亡くなりました。肺気腫の合併症です。最期の一ヶ月は私が通院の付き添いで父を車椅子で押していました。病院を移り、医師から良くなるかもしれないという話をされ、でも祖父母の件もあったんだからちゃんと遺言のこせよと念を押し、相変わらず返事がなくて、色々これからだと思った矢先、誰の想定よりも症状が重たかったらしく、突然亡くなりました。どんなに何をしようと後悔は残るものだと思いますが、その残り物はあまりに多すぎました。父は愚かなやつでしたが、私も同じくらい愚かだったと思います。

 しかし、私が愚かだった理由は、それほど愛されていたからだと信じています。

なんで俺が去人たちの新作を終わらせなきゃいけないんですか。『去人たち ZERO Div1』について所見

『去人たち ZERO Div1』

www.freem.ne.jp

kyojintachi.k2cee.com

 

 『去人たち ZERO Div1』が11月9日に公開された。もちろん私は即プレイした。

 全私から称賛のコメントが寄せられているっぽいので、ここでその一端を軽く紹介しよう。

 

 地獄のようなゲームだ。

__benza kaba

 

 Steamは黄金を手放した。彼らにはこれが糞に見えていた。

__nikaisine games

 

 このゲームのせいで、オレは今、完璧に、エンパイアステートビルなんかより完璧に勃起している

__watanabe

 

 俺たちの去人たちマンが帰ってきた。が、すぐどっか行った。

__べんざカバー

 

 

 ふざけるのも大概にして、以下まじめにふざけながらネタバレしよう。

 

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100の質問をつかって自己紹介します

「秘密主義者なの?」

 

 それはまだ私が社交性を有していた頃。

 

 昔、とあるインターネットのチャット部屋でそう言われた。

 

 素直に、ええそう見えるのかと思って、まあそういうところもあるよねと返したが、個人的に納得がいっておらず、その言葉はたびたび内心で反芻されることになるものの、時が経つと共にやがて印象も薄れて、海の向こうにそのメッセージはうち流されていった。

 

 しかし、手紙は必ず届く。

 

「なんか秘密主義者っぽいよね?」

 

 それは私がある場所で面接を受けていたとき、そう言われた。

 

 ぼこぼこぼこぼこ……と沈んでいったものと、再び相見えることになると思いもしなかった。だって、海に沈んだものが空から降ってくるなんてありえないだろう。

 

 というわけで、自己紹介をやろうと思う。

 とはいっても、無から出発して自己紹介するのもむずかしいので、ググって出てきたものに頼ってみよう(無が有ることについてはハイデガーさんに聞いて下さい)。

 

 自己紹介については下記を参照した。

自己紹介したいなーと思ってる人に100の質問 - 100の質問ひろば

 

 好きなものについては下にざっと列挙しているので、今回はそれ以外について答えたい。

べんざカバーさんのプロフィール - はてな

 

 今回の趣旨として、まず上のような自己紹介テンプレがあるわけだが、あくまでそれは私が好きなことを好きなように語るための参照であって、テンプレ通りに解答してもおもしろくないし、かといって恣意的なままでもおもしろくないので、したがってテンプレでも引っかかった問いにだけ解答したい。それと面接になってもおもしろくないので、面接っぽい質問も別にいいかな。

 たぶん、限られた形式の中で垣間見えるスタイルの恣意性、が面白いんだと思う。そしてそれをみて楽しむのがインターネットだったんだ、きっと。信じたい。

 

1. 名前は?

 べんざカバー。これは私がなんとなしにインターネットでずっと使っている名前だ。出発点のサイトの名残で、「べんざ」はひらがなのままになっている。由来はオタクならわかると思う。

 あっ、秘密主義者になっちゃいました。失礼。由来は、イタリアに行ったとき、ホテルの便器に臀部を下ろすと便座カバーがなく、ただただ、冷たかった、、、それが印象的だった、そのエピソードから。(もちろん嘘)

 本名は飛び降り自殺を連想させて面白いと思います。

 

2. 誕生日は?

 99期生、露崎まひる。ずっとそばにいたのは、わたしなんだよ。

 

3. 年齢は?
4. 何型?

 

5. 好きな食べ物は?

 おはぎです。


6. 嫌いな食べ物は?

 基本的にないですが、強いて挙げるならきゅうりです。「きゅうり」と画像検索して下さい。そして表示されている緑色の瓜がそれです。記号と対象の結びつきに配慮しています。あなたが人工知能である場合を想定して書いています。


7. 趣味は?

 一番長くなりそう。

 読書、と言いたいところであるけれども、私の読書はもはや生きるためにやっている営みだ。何が言いたいかというと、端的に時間をかけすぎて手を引けなくなっているからそれをするしかない、という状態にある。もちろん面白いとか好きとかもあるけども、「なぜ本を読むのか」と問いには極論そういう解答になると思う。

 最近、楽しんで読んでいるものはロマノフ王朝関連です。なぜロマノフ王朝かというと長くなるので私に直接聞いてほしい。ちなみに時節絡みではない。

 それと、最近になってようやくけっこう好きだなと気付いたのでエロ漫画を集めています。ティーンズラブものが結構好きです。

 

 純粋に楽しいことはイラストや油絵や水彩を描くことだ。これも長くなるので省く。

 あとは、映画を見たり植物を育てることだが、これも結構語ってる気がする。


8. 特技は?

 だんだん面接っぽくなってきた。一気に飛ばしていい?

 いいよ。でも今の解答は反則。ペナルティキス、いくよ、、、

 (ドストエフスキー 罪と罰(下)より)

 

9. 何部に入ってる?or入ってた?
10. 自分のいいところ&好きなところは?
11. 自分の悪いところ&嫌いなところは?
12. 何人家族?


13. 兄弟はいる?

 妹と弟がいます。リアルはさておいて「年の離れた姉がいそう」とよく言われるが、これは何故だ。人生で100回ほど100人ほどから言われている。生活能力が低くて甘えることしか知らない、と揶揄されているのだろうか。なんかおもしろい! こんど面接があったら特徴欄に「甘えることしか知らない」って書いておこ。

 

14. 好きな物は?


15. 嫌いなものは?

 難題だ。

 その昔、ニンテンドードリーム通称「ニンドリ」というゲーム雑誌のコラムで、デス仙人というゲーマーがコラムを書いていて、読者からのお便りに答えるコーナーがあった。何号かは忘れたが、そのお便りのなかの「デス仙人の嫌いなものは何ですか?」という質問に対して、デス仙人は「公共の場で嫌いなものの話をする神経が理解できんぞ」と解答していた。

 それが抑圧として作用しているのか、どうにも嫌いなものについてインターネットで書くことが苦手だ。あるんだろうけども、こう書くとなるとどうしても思い出せない……思い出した端から、いやでもそれ今は嫌いでもないな、と納得してしまう、ううむ。

 しかし、リアルという場はおもしろい場で、リアルで嫌いなものについて語ると、堰を切ったようにパフォーマンスできる。それは、嫌いなものについて語ると相手が喜んだり楽しんだりすることを無意識下で分かっているからだと思う。

 つまりは話すことにまつわる享楽が問題なのだ。「あいつが俺の享楽を盗んだ」という言説が、人は好むしリアルと感じるのだと思う。それでは、延々と嫌いなものについて人に語ってもらうとしたら、人はどうなるのだろう(私はラカンが好きでラカンの話は延々とするのでここで切らせて頂きます)。

 

16. 身長何cm?
17. 故郷は?
18. 好きな人or気になる人いる?
19. いるなら同じ学校&同じクラス?
20. その人はどんな人?
21. 自分にとってその人はどんな人?

 

22. 好きなタイプは?

 好きなキャラクターはアイドルマスターシャイニーカラーズの市川雛菜さんです。

 もうしわけないですが、アイマス自体はさほど好きになれなかったのです。でも、シャニマスと市川雛菜さんは好きです。

 

23. 好きな人(気になる人)と毎日話す?
24. その人は何歳?
25. 信頼できる人は何人いる?
26. 将来の夢何?
27. どこの高校or大学に行く予定?(受験生)
28. 自分はどんな性格だと思う?
29. 好きな場所は?
30. 嫌いな場所は?
31. 好きor得意な教科は?


32. 嫌いor苦手な教科は?

 みなさんの予想通り、私は数学が苦手だった。

 やろうと思えばできるとずっと思っていて、その内そういうやる気も曖昧になったという感じだ。色々と本を読むうちにいま改めて興味を持ち始めており、高校数学の本を取り出したりしているのだけれども、中高に在籍していた頃は数学を触れることが苦痛だった。

 一番に思い出せる事として、中学の証明が最も苦痛だった。

 今となってはその重要も必要も理解しているのだけれども、恐らく当時は、いってしまえば証明が作業的に感じられ、“私” が “これ” を “書く” という事態に対して途轍もない億劫さを覚えていたと思う。

 なんて話だ。

 ここまで書いて、この一連の自己紹介の本当の意図について、私はいま残っているものと失われたものを数えたいのだとわかった。それがわかった時点でやめるべきかもしれないとか頭によぎるのだが、まあせっかく始めたのだからもう少し続けてみよう。ちなみに、ここまでの質問で解答しなかったものはとうに十を超えた。

「失っていくんだもっと、僕は色々と」、、、

 

33. 好きな飲み物は?
34. 嫌いな飲み物は?
35. 告白したことある?あるなら何回?
36. 告白されたことある?あるなら何回?
37. 告白するorされるならどこがいい?
38. 付き合う人の条件は?
39. 今彼氏or彼女いる?


40. 好きな曲のジャンルは?

 トリップ・ホップ。昔からポーティスヘッドやマッシブアタックが好き。

 

41. 好きな曲3選!
42. 口癖は?
43. ついしてしまう癖は?
44. 幼なじみはいる?いるなら誰?
45. 好きなアーティストは?


46. 好きな芸能人は?

 玉城ティナさんのファンで『玉城ティナは夢想する』を何十回もリピートしたり写真集を買ったりしていました。

玉城ティナ主演・山戸結希監督作品『玉城ティナは夢想する』 - YouTube

 

 テレビメディアに出てる人のことはよくわからないです。

 

47. 好きなアニメは?

 いちばん好きと言えるアニメは『機動戦士Vガンダム』です。まあこれについても色々語っているので割愛。

 よく「ロボットアニメが好きなんですか?」ときかれることが多いが、ロボットアニメを選んで好んでいるわけでもなくて、たくさんアニメをみてたまたま惹かれるなあと思うものにロボットアニメが多い。

 あとははてプロに書いているとおり、『lain』や『地獄少女』が好きです。


48. 好きな漫画は?

 鬼頭莫宏さんと、知るかバカうどんさんと、冬目景さんと、雛原えみさんの漫画はだいたい好きです。

 あれ?結局好きなものについて語ってない?

 

49. 好きなドラマは?
50. 好きな映画は?

 

51. 好きな作家は?

 スタンダールプルーストマルグリット・デュラスマルグリット・ユルスナール……頭おフランス文学か? これもロボットアニメが好きに見える現象と同じで、好きな作家を列挙するとたまたまフランス文学になりがちだ。

 あえて自国の作家に限定してみるなら、筒井康隆と……筒井康隆と……あと、つついやすたか……それと……ツツイヤスタカ……ツツイ…………ア…………ッ…………あっ瀬戸口廉也

 後はもう生きてない人ばかり挙げるかなあ。泉鏡花とか。

 実は日本文学だと詩歌のほうを好む傾向があるっぽいので、詩人や歌人のほうが挙げやすい。特に万葉集はやばいエクリチュールだ。読み応えしかない。固有名なら北園克衛西條八十伊藤比呂美、葛原妙子、岡井隆、今橋愛……とめどなくなってきたので中止。

 

52. 好きなスポーツは?
53. 嫌いなスポーツは?
54. 好きな季節は?


55. 好きな色は?

 ♡赤と白と黒の淡い組み合わせ♡


56. 好きな花は?

 ゼラニウムさんとか赤い花を好みます。たぶん母親の影響です。

 

57. 好きな動物は?


58. 自分はなんの動物に似てるってよく言われる?

 ラブクラフト


59. 何フェチ?

 やさしくてきれいなお姉ちゃんが、ころされてしまいました。

 そのうち僕がころそうと思っていたので、かなしかったです。

 (夏休みのにっき はち月 さんじゅういち日)

 

60. 好きな人には甘えたい?甘えられたい?
61. 冷める瞬間は?
62. 聞き上手?話上手?
63. ストレスを感じる瞬間は?


64. ストレス発散方法は?

 私は大学で心理学を学んでいたので、この手の質問をもらう事が多いのだが、今回はこの意味不明な長文を読んでくれている皆さまのために、こっそり、ひとつだけ教えよう。

 これは雑誌『anan』に載っていて知ったのだが、その方法はゲーム『SIREN』に登場する前田家の母の物真似をするというものだ。

 その前田家の母のどの行動を物真似したらいいのかについては、下のyoutubeの3分くらいから見て頂きたい。


www.youtube.com


67. 人生で1番楽しかったことは?

68. 人生で1番幸せだった時は?
69. 人生で1番辛かった時は?
70. 人生で1番悲しかった時は?


71. 後悔していることある?

 そう。

 これをここまで書くほどにはある。

 あの時のあれは時間の無駄だった、みたいな事は殆ど思わない。仮にそれが意味を持つのであれば、生まれてきてからの全てが無駄だからだ。

 あるいは、「全ては無駄かもしれなかった」という過程がある場合のみ、全ては意味を有しえるはずだ。その場合だと、無駄か無駄じゃないかを決めるのは私じゃないし、それはその時そのつどの趣味判断だなと思う。

 ぐだぐだと書き連ねたが、ひとつ述べられることとして、そういう留保を踏まえてしか後悔できないこと、それを後悔するべきなのかなと思う。

 

 だから今、テンプレを使って、、、

 こうやっている、、、と。

 

 わかります?


72. 大切にしているものは?
73. 自分はSとMどっち?
74. 好きな人に依存する?されたい?
75. 束縛されたい?したい?
76. 恋人に求めることは?
77. 何か恐怖症はある?
78. トラウマは?
79. くせ毛?直毛?

80. 今欲しいものは?

81. 将来の夢は?
82. 五感の中で何が自信ある?
83. 黒歴史は?
84. 料理はできる?
85. 朝強い?弱い?

 

86. カラオケの十八番は?

 夕方のピアノ/神聖かまってちゃん


87. 今行きたい場所は?

 寒くて暗くて、目の前の灯りだけが寄る辺になるようなところ。


88. 行ってみたい国は?
89. 自分だけのマイルールってある?
90. 人混みは平気?
91. 今年中にしたいことは?
92. 今までしたことある習い事は?

93. 尊敬している人は?

94. 人生に最も必要なものは?

95. 無人島に行くなら誰を連れてく?
96. 悩み事を聞いてくれそうな人周りにいる?

 

97. 今辛くない?

 だから、今が特別に辛いとは思わない。


98. 今人生楽しい?

 すごく楽しい。


99. もしも行けるなら未来?過去?

 もう既に


100. 最後に。大切な人に贈る言葉

 最後が適当で、非常に申し訳ございませんでした。

 全て、私が悪いと思います。

べんざカバー、探検隊は『ワンダーエッグ・プライオリティ』一話の奥地へ向かい『serial experiments lain』と遭遇してしまう!

ある日のあるDiscordサーバーにて、私はそれを知ることになった。

ワンダーエッグ・プライオリティ』。なんて作画のきれいなアニメだろう。

そして野島伸司さんの挑戦的なコメント。なんて視聴意欲をそそるのだろう。

一話。

最高なのでは?

私が惹きつけられた理由として、まず一つ目に物語の語り方が好き。一話あるあるなのかもしれないが、今作品の一話は出来事の順序を発生順に説明する形式をとらず、出来事は主人公の思考の流れと共に説明されて並び替えられている。物語の筋を把握するためには、あの出来事があったからあの出来事があったのか、とこちらが出来事を線で結ぶ必要がある。前か後かはたまた同時進行なのか。正確なことはわからない。肝心なことは出来事同士の関係なのだ。一話のラストは、そうしてこれまで語られていた複数の時間が折り重なって着地したかのようだ。アニメの語源はアナクロニズムである(うそです)。

さて、もう二つ目の理由として、『ワンダーエッグ・プライオリティ』一話はアニメ『serial experiments lain』のオタクを狙い撃ちにしたからだと思っている。以下では、『ワンダーエッグ・プライオリティ』の一話におけるlainとの相似について語ってみよう。

 

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ワンダーエッグ・プライオリティ』主人公・大戸アイ

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ワンダーエッグ・プライオリティ』大戸アイの親友・長瀬小糸

大戸アイはバツ印の髪留めであり、長い前髪でオッドアイを隠している。もうこれだけでバツ印の髪留め・おさげで耳を隠す岩倉玲音さんを思い返したくなるが、まだ早い。

長瀬小糸はでこ出し眼鏡で、作中内の彼女の行為、そしてその行為が大戸アイを異世界へ誘うので、否が応でも四方田千砂を連想させる。

 

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ワンダーエッグ・プライオリティ』大戸アイ夜ver.

大戸アイは深夜に散歩するくせがあり、その際にパーカーで自分をすっぽり覆う。岩倉玲音さんも夜はくまパジャマ着てたね。

 

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ワンダーエッグ・プライオリティ』

序盤。学校のような異空間へ足を踏み入れた大戸アイは、異空間にて異物として認識されているような存在だ。すれ違う生徒は顔を描かれず、ただすれ違う存在として描かれている。ここら辺りはまさしくlainの一話の場面、玲音が学校で幽霊たちと遭遇するシーンと非常に似ている。またBGMもそれっぽい。

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ワンダーエッグ・プライオリティ』

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ワンダーエッグ・プライオリティ』

この異空間としての学校は空白と霧がひしめいている。これもまたlainにて見られた光景である。

 

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ワンダーエッグ・プライオリティ』

この「死ね」が「預言を実行せよ」を想起せざるを得ない理由は、このシーンのあとに大戸アイがトイレの個室に籠もるからだ。lainの四話でも、玲音の姉・岩倉美香が「預言を実行せよ」というメッセージが与えられる出来事から逃れるために個室に籠もり、個室の扉にびっちり書き込まれたそれを目撃することになる。

 

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ワンダーエッグ・プライオリティ』

個室に籠もった大戸アイは、トイレットペーパーの唇形成体から話しかけられる。ワイヤードへ足を踏み入れた玲音も「チェシャ猫」という唇だけのアバターから話しかけられていた。

 

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ワンダーエッグ・プライオリティ』

肥大のち破裂した卵から出てきた彼女(名前を忘れてしまった)。

そろそろみなさんも、私が病気なほどにlainを見ていることがわかってきたの思うのだけど、病気の私の場合だとこのカットを見るだけで、「何の罪もないはずなのに 何らかの罰を受けてる~」というlainのEDが思い浮かぶのである。

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ワンダーエッグ・プライオリティ』

というわけでブレザーもなんとなく似ているというふうにかんじてしまうわけであります。病院いったほうがいいな。

 

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ワンダーエッグ・プライオリティ』

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ワンダーエッグ・プライオリティ』

そして「見ないふり」が登場する。「見ないふり」は主人公たちを追いかけるわけであるが、その足跡として赤緑ピンクのペンキだか血だかを背景にぬったくる。これもlainで見たことがあり、lainは建物の影に同じような色が散りばめられている。

 

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ワンダーエッグ・プライオリティ』

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ワンダーエッグ・プライオリティ』

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ワンダーエッグ・プライオリティ』

これら背景では、ゴッホの絵画における教会の如く、遠景に電線や電灯が必ず配置されている。単に現代日本風景を活写するとこうなるだけかもしれないが、ここまでlainとの相似でこの作品を見てきたからには、やはりlainの痕跡を見て取ってしまう。

 

 

さて、すべてを拾ったわけじゃないが、このように『serial experiments lain』と相似するシーンや要素が散りばめられていると感じた。実際に引用元だったらどんなにうれしいことか!いやまあわからないけどね。自分の浅学で、lainの引用元を知らないだけかもしれないし。そういえばlainのシナリオ集で、lainの一話は完成度の高い見本としてアニメスタッフから参照されることの多いアニメーションであると読んだ覚えがある。そういうことかもしれない。とにかく実際は謎である。

何を作るのかが共通すると具材も似通う、ということがあるだろう。すなわち、ワンダーエッグ・プライオリティの表現の方向性とlainの表現の方向性が、微細に違っても重なる部分があって、用いる設定からそれらの表現が奇跡的に重なったというわけだ。

それではワンダーエッグ・プライオリティはlainの物語性を反復し物語性に応答する作品になるのだろうか。なったらおもしろいなあ。serial experiments lainのアニメ版は「記憶は記録」「人はみんなつながっている」というテーゼに反抗した物語だと私は解釈している。この二つのテーゼは、いわば作品による世界に対する解釈である。一方で、ワンダーエッグ・プライオリティは「セカイを変える」という文句が打ち出されており、恐らく物語はこれから「セカイ」の内実に迫っていくと思われる。この「セカイ」を蝶番にして、これら二作を語り直すことができそうな気がする(ちなみに私は全然趣味じゃないので、「セカイ系」の議論についてスルーしておきます)。

ワンダーエッグ・プライオリティ』において、セカイは卵としてメタファライズされているように思う。しかし卵は複数のメタファーで、卵を通してセカイは複数のメタファーとして表現されるのだと予想する。

私は卵料理がたいへん好きなので、同じく卵料理であろう『ワンダーエッグ・プライオリティ』の卵の扱い方に、たいへん期待している。私の場合だと、卵が食用と印付けられていたとしても、育む命が出てきたらと想像してしまう。ゆえに、卵を割るときはいつも恐る恐るだ(村上春樹の卵の側に立つ話とか思い出す)。でも、落としたりなんだので不意に割ってしまうことがある。そのとき割れるものは、卵だけではないのである。「もしもこれが有精卵だったら……」という可能性そのものが割れてしまうのだ。もし私の人生がフィクションなら、私が卵を落としてしまうシーンは私がひよこ以前のなにかを殺してしまうシーンとなるだろう。

このように、失われた過去の可能性を表現できる媒体がフィクションなのである。そして私はそういうフィクションを愛している。そしてそういうフィクションを愛する理由は、手を汚す感触を常に語るからだ(やってしまった感)。それは手を汚した気にさせるだけだと言われたとしてもだ。現に、アニメをつくるという作業自体が手を汚す仕事である。私はアニメ(のみならず)を手を汚したものとしてみている。

失われた過去の可能性と、手を汚す感触。前置きが長くなったが、私が『ワンダーエッグ・プライオリティ』に惹かれた第三の理由は、私のテーマ的感覚を刺してきたからである。

なにはともあれ、こんなに素晴らしいアニメたちがあって、私はしあわせです。

一日だけ日記を書く試み__2020年8月3日(月)

母親に呼びかけられ9時頃に目覚める。

曾祖母がそろそろとのこと。

いまだ半夢中。

きのうは労働に従事したのでなかなか疲れていた……のだけれども……

えっ、あ、そう……

それは……

思考より体が優先し、猛暑の中で車に乗り、緑草と青空を横目に長々と揺られ、或る日陰に差し掛かると病院へ着いていた。

病院の待受では母親の幼馴染がコロナウイルス対策の確認として出迎え、よくわからない会話をした。「えっあなた(母親の名前)のお兄ちゃん? うわー、誰に似たの?」「この家族で誰にも似たくありません……」思わず口に出たが笑ってもらえた。

曾祖母はベッドで眠っていた。かつて老人ホームで介護されていたが、昨日から目と口が開かないとのことで病院に搬送された。そして医者から祖母へ通告。それを母が聞く。そんな経緯。「あそこの病院は老人が最後を迎える場所」と母親から聞いていたのもあって、病室の陰影は陽光で翳った墓石のようだった。曾祖母が最後に眠る場所としてはわたし好みに過ぎる風景だったので、ちょっと後ろめたさを感じつつ、心の中でシャッターを下ろした。親しい人間の最期を描いた画家は少なくない。この風景をだれかが描くとしたら、うーん、ハマスホイに頼む。

 

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ヴィルヘルム・ハマスホイ『陽光、あるいは陽光に舞う塵』 (1900)

 

面会は、事も無げに終わった。寝ている曾祖母に、母親が呼びかける。曾祖母は、寝ているのか無視しているのか返事をしない。約束の10分は単純にやってきた。おそらくわたしと曾祖母の最後のナマの対面となった。心惜しくなかった。どんな現在も、どうあがいても過去になるから。

12時過ぎに祖母の家へ着く。病院の近くだったので寄った。あいかわらずの大きな家の大きな玄関に着くと、わたしは飼い犬(以下、「おれ」と表記する)をしつけた。おいおれ、おしっこすんなよ。先客として親戚がリビングにいた。顔も知らず年齢も遠く離れた親戚たちだが、おれのおかげで滞りなく会話できた。おれはしっぽを振りまくる!それはまるで会話の風見鶏だ!ビション・フリーゼは世界一かわいいイヌだ!

し∵J ←おれ

おれが愛想を振りまいている隙に、リビングから離脱する。久しぶりの祖母の家だったので、ちょっと探索してみたくなった。すると、曾祖母の部屋に出くわした。

曾祖母の部屋は整理されていたが生活感をもっていた。調度品が壁に寄せられ、部屋の真ん中になにもない空間ができていた。まるで、曾祖母が老人ホームに移住して間もない様だった。曾祖母は齢100近くだったあの頃でも、編み物や絵などものして器用さを保っていたし、思考や物言いから老いを感じさせなかった。老人ホームへの移住が決まった時、曾祖母は激情をもって抵抗したらしい。その事情はよくしらなかったが、あの柔らかい態度から想像ができなかった。

部屋主のいない部屋に足を踏み入れると、隅にあった箪笥にわたしの名前を発見した。小学校の入学式の名札が掛かっていた。そして幼いわたしの写真があった。曾祖母と写っていた。わたしの名前と顔はそこかしこにあった。老人ホームにいた時の曾祖母は、わたしの存在を忘れていた。わたしの名前も分からなかった。だけれども、わたしをみて泣いていた。誰だかわからなくてごめんねえ。そう言われてわたしは笑った。愛の幸福な結果は愛の対象を忘れることなのだ。忘れられるだけわたしは愛されていたのだ。そしてその愛の証左として、わたしの存在を表す記号が彼女の部屋にあるのだ。

部屋のクローゼットには衣装がしまっており、その奥に人ひとり入れる空間があった。幼いわたしはしばしばそこに隠れた。曾祖母は必ずわたしを見つけた。懐かしく思ったのでそこに入った。かくれんぼが好きだ、昔も今も。行方不明になってみたい。幼少からそう思っていた。痕跡だけ残して、気になった人が鬼になってくれればいい。若しくは鬼もいらない。人生はひとりかくれんぼ。満足したので曾祖母の部屋を出た。

帰り道、母親はあの親戚のうるるさについてうるさく話した。会話に出てくる親族は母方の親族ばかりだなと思ったが、そもそも父方の親族は死ぬか行方不明になっている人物ばかりだった。そして行方不明になっている方が多い。なんだ、わたしの運命はもう書かれているじゃないか。お母様、ご心配なさらず。あなたの面倒は弟が見ますので。何いってんの、誰からも面倒見られるなんてごめんだわ。そう言って母親はうるさく話し続けた。

夕方に帰宅すると、世界一かわいいイヌ、ビション・フリーゼのおれは、わたしにびっちりくっついてきた。おれは散歩に行きたいらしい。すまないがどっと疲れたのだと自室でわたしがベッドに横になるやいなや、おれはベッドに飛び乗ってびっちりくっついてきた。そしておれは寝息を立てた。そろーっとベッドから離れて自室を出ていこうとすると、ベッドでおれは屹立としていた。抗議の姿勢だ。

そのうち雨が降った。おれは雨をいやがるナイーブなイヌなので、もうすっかりうなだれていた。今日は散歩をやめとこう。そうだ今日も日記を試してみよう。その思い付きでキーボードを叩き、小一時間で22時に至っている。この後はなにも考えていない。

『去人たち』紹介/第一章「秋日狂想」から『去人たち』を読む

みんな大好き『去人たち』の記事を書く。今回の記事は二本立てで題目通りだ。

本文は『去人たち』の紹介記事も兼ねている。クリア済のかたはそのままお読みいただければ幸いだが、プレイしていないかたは下のURLにアクセスするか、ネタバレ箇所を読み飛ばして、紹介部分だけ読んでもらえれば幸いだ。「秋日狂想」に限ってネタバレしようと思うので、ネタバレいらないよという方は去ってよろしいです。「秋日狂想」だけをクリアした方でも読めるように配慮してありますので、ご安心ください。

http://kyojintachi.k2cee.com/#!home 

 

 

『去人たち』紹介__ノベルゲームの悪魔の所業

私が個人的に『去人たち』を強くおすすめしたいと思う人は、自分の生きている現実に対してなにか思うところのある人だ。自分の生きている現実とは、なんだろうか。そんな漠然たる思いを抱えている人に、ぜひプレイしてほしいと思っている。

 

さて、端的に、ゲームが奪うものは時間である。

恐ろしいことだが、ゲームはプレイすることで、プレイしなかったかもしれない時間を奪うだけでなく、ゲームをプレイした後の時間さえ奪うのである。そのゲームをやってしまったら、もう二度とプレイしなかった頃に戻れない__知ってしまったら、もう戻れない。

オープンワールドゲームが、なぜ流行るのだろうか? それは、プレイしなかった頃に戻れないからだ。プレイヤーの挑戦を求めるタスクが、無限のようにオープンワールドに配置されている。多くのタスクは連関しているから、プレイヤーは野菜を土から引っ張るようにずぶずぶ時間を費やさなきゃいけなくなる。タスクを終わらせると、消費したタスクとその結果が確認できて、費やした時間を横目にしながら楽しかったなと言わざるを得なくなる。これが『時のオカリナ』などの3Dゲームの極地という気がしないでもない。だから、わたしはオープンワールドゲームをクリアする度に、わたしゃ農家で、ゲームは土だなって思うわけ。それはわたしが育てた土壌じゃないけど。

『去人たち』は、ジャンルとしてはオープンワールドゲームじゃない。マップはたいして広いわけじゃない。だから一日や二日あればゲームはエンディングを迎える。自由度は高いわけじゃない。ほぼルートが決まっている。

しかし、『去人たち』は、オープンワールドゲームと比類する深さを持ったゲームだ。プレイヤーが相手にせざるを得ないタスクは、言語のかたまりであり、テクストだ。タスクは、テクストを理解せずとも、ポチポチやってるだけでクリアすることができる。

しかし、テクストを理解しようとすると、ずぼん!(水の音)

 

 

ノベルゲームは言語のかたまりなので、言語をどう理解するかにゲーム性が凝縮されている。言語はみんなのものなので、ゲームにおける言語のかたまりは、当然ながら作品内で論理関係が完結することができない。であるからして、ノベルゲームにおける言語はゲームのなかで最大の役割を果たす言語だ。

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『去人たち』/K2Cee

音楽が鳴るなかで背景と立ち絵とテクストがプレイヤーの前に現れる。この配置においてプレイヤーはそれらの意味を等価に受容するだろうか?

それは難しいと思う(わたしは研究者じゃないので断言はできない)。なぜならクリックして動く対象の多くはテクストだからだ。プレイヤーはテクストの意味をまず理解しようと務めると思う。ノベルゲームにおけるタスクは主にテクストなので、尚更そうだと思う。

『去人たち』のうまいところの一つ目は、そのテクストに文学のやりかたを持ち込んだことだ(主に去人たちⅡにおいて顕著)。文学といってもむずかしいことじゃない。そのやり方を持ち込んだだけので、文学をわからなくても『去人たち』はまったく読めるしとても愉快だ。注目すべきは、これによって『去人たち』はフリーのノベルゲームにおいて、異質なゲームとなったことだ。わたしは、寡聞にして同じようなゲームを知らない。

『去人たち』のうまいところの二つ目は、ノベルゲームの可能性を探索する表現だ。先からテクストの話しかしていなかったが、『去人たち』では最終的に音楽も絵も愉快になる。結果、異質さに磨きがかかり、プレイヤーはこのゲームでしか体験できない体験が得られるはずだ。

結局のところ、ゲームは時間を奪うことでなにを目指すだろうか?それは、感覚の変化だ。言い換えるとトリップだ。『去人たち』は、プレイヤーをトリップさせるにあたって、ほかのゲームとは異質なトリップを体験させてくれるだろう。

そのトリップは現実に影響を及ぼしかねない悪魔の所業かもしれない可能性があるために、くれぐれも注意しながらプレイすることを推奨したい。

 

物語の内容は、はじめミステリー・サスペンス的な展開が繰り広げられる。しかし話が進むにつれて、深刻でシリアスな内容となる。わたしの個人的な好みは、哲学チックな要素とセンチメンタルな要素がいい具合に絡まっていることだ。Ⅰのみ声優が声をあてており、これがまた名演だ。

また音楽が特段に良く、サウンドトラックが売られているのだが、未使用・イメージソングが数十曲も同梱されており、かなり良い。手放せないシロモノとなっている(そして、わたしが去人たちを忘れられない理由になっている)。

グラフィックについて書きだすと語りたい事が多くて止まらないので余り書かないが、油絵風のキャラクターはこのゲームの画面にとてもよく馴染んでいて、異質さを醸し出すと同時に印象付けさせることに成功している。立ち絵はいるいらない話をニコ生でしていましたが、この均整な立ち絵がかえって不安や寄る辺なさを漂わせながら美しさをたたえており美人画的な美しさが(以下略)

 

以下ゲームの画像。

 

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去人たち/K2Cee

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去人たち/K2Cee

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去人たち/K2Cee

 

第一章「秋日狂想」から『去人たち』を読む

※今記事は猫箱ただひとつ氏の次の記事を参考にさせて頂きました。

 猫箱ただひとつ氏に感謝いたします。

『去人たち』考察―精神病者は踊り狂い、傍観者は去っていく― - 猫箱ただひとつ

 

 

 『去人たち』「秋日狂想」は、本編に含まれなかったかもしれない内容で、グラフィック担当の吉川にちのさんの意図によって『去人たち』の導入を飾ることになったという経緯が、いつぞやかのニコ生にて話されていたと記憶している。(記憶があいまいなので、訂正があればお願いします)

その判断はすばらしいと思う。なぜなら『去人たち』という作品において、「秋日狂想」は『去人たち』という作品の構成要素が詰まっている章立てのうえに、なにより「秋日狂想」の物語だけでも単体の作品として楽しめるからだ。

「秋日狂想」は『去人たち』の物語の核心にほとんど触れず物語を冗長するので不要だという意見もあるかもしれない。物語の序章は、物語を駆動する歯車について説明し、結末を仄めかせ、いわばラストに至るまでのラインを白粉で引く。その役割からすると、「秋日狂想」は歯車の説明をするものの『去人たち』のグラウンドに白粉で線を引かず、物語の全体から顔にできた吹き出物のように孤立している。

しかし、ゆえに、なおさら、逆説的に、なぜ「秋日狂想」は導入を飾ることになったのか思考することが必要であると考える。作者の死というけれども、作者を無視していいわけではない。作品には作者の「意図」が必ず存在するとわたしは考えるからだ(糸、いと、イド……? あるいは、作者とは父-の-名だ、ゆえに厳密には無視ができない)。そしてその点でいえば「秋日狂想」は上述のように揉めたことがわかっている。

いわば「秋日狂想」は、生き延びたのだ。生き延びたものの語りを、理解してやれるだろうか? 理解しないで……と言われたときに、理解しないことがほんとうに正しいことなのだろうか。たとえ理解しない体裁をとったとしても、暗黙裡で理解したことにウソをつくことにならないだろうか。

わたしの主張は、「秋日狂想」は『去人たち』要素を隠喩・換喩的に漂わせ、『去人たち』導入の役割を持っているということだ。この主張によって、『去人たち』がなにを表現しようとしていたのかを、表現してみたい。

 

 

下記よりネタバレするよ_____________________________________

 

 

Ⅰ テクストを読むことに関する物語

霜の降つたる秋の夜に、庭・断碑に腰掛けて、月の光を浴びながら、一人おまへを待ってゐる

__『去人たち』「秋日狂想」(以下、引用は引用先から)

 

Ⅰと表記したが、話に区切りをつける目的で、筆者が勝手に分節したことを了承していただきたい。

今節のあらすじは下記となる。

 

・舎密部の「俺」宛てにダイレクトメールで水色の封筒が届いた

・中身の三つ折りの紙切れは何も書かれていないので指紋検証を行った

・浮かんだきた左手の手形は指が六本あった

・指紋を拡大すると上述の文章が穿ってあった

 

この時点での『去人たち』の特徴的モチーフを示してみよう。

まず、この時点で『去人たち』の特徴的モチーフのひとつの「テクストを読むこと」が登場していることだ。上述の引用文の内容をこのとき「俺」は理解しない。しかし、この先の展開では、あれやこれやと当てはめることになる。このときの「俺」の視点は、この文章に対するわたしたちの視点と重ねることができる。更にもっと大胆に解釈すると、『去人たち』という始めたばかりのゲームに対するわたしたちの視点と重なる。だから、このときの「俺」の視点は、メタな視点といってもいいかもしれない。

舎密部の「俺」に届けられたダイレクトメールは、「俺」の手を通してわたしたちに読まれる。読まれるテクストは、つねに別のだれかに読まれた=解釈された上で読まれる。わたしたちの読みは、だれかに読まれたテクストに由来する。わたしたちは、だれかに読まれたテクストを頼りに、物語=テクストを探索することができる。読んだテクストを頼りに、「俺」が物語を動かすように。

わたしは確信しているので、早々と結論を書いてもいいかもしれない__『去人たち』は、テクストを読むことに関する物語だ『去人たち』は、読むことによって探索される意識や現実を表現している。個々の登場人物たちは、読みによって、あるいは読まれることによって、または読まれたテクストを読み返すことによって、「生きていくための現実」(後に出てくる登場人物のセリフ)を探すのだ。

それでは、どのような意識や現実が探索されるのだろうか?生きていくための現実とはなんだろうか? ディテールはどうせまた後でも繰り返すので留保しておいて、次の節に移ろう。

 

Ⅱ テクストの快楽

「わたしの頭の中には、いつの頃だったからか、“透き通っているかのように肌の青白い、薄命そうな少女”が独り棲んでいて、それは“セーラー服”なんかを着込んでいて、そして月の光を浴びているの」

__少女

 

“どのような命題にも例外がある”という命題にも例外があるとすると、例外がないということになる。だから自己矛盾である。

__「俺」

 

今節のあらすじは下記となる。

・廊下でありすに出会う。出会いが語られ、黒い旗とか手相とかでいちゃつく

・真夜中に庭・断碑で盲目の少女に出会う。という夢を見て、少女と会った場所で点字の紙を拾う

・昼食。「俺」の奥さんの存在が示唆される。覚えのない吹奏楽部の盗難事件について翠子と会話を交わす

タツヲと仲良くおしゃべり。次の日に吹奏楽部員の転落事故が起こる

・遺体安置所にて盲目の少女と会話。探し物をひとつだけ見つけたと少女は言う。繰り返す言葉に出てくる少女は自分自身でないかと「俺」が指摘すると、全ての忘れ物を思い出したと言って少女は消える。入れ替わりに翠子が現れて会話する。

・捜査中に吹奏楽部員を盗み聞き、只埜の存在と、転落死した部員になんらかの骨が送られていたことを知る。只埜の姿を眺める。

・詰め所にてタツヲとの会話により只埜のプロフィールが判明。翠子の電話によって死亡事故が知らされる。

・音楽室で只埜のアリバイを確かめる。なぜかポケットから点字楽譜が出てくる。只埜は動揺する。

・詰め所で翠子と会話し、死亡事故の詳細について確認する。

・体調の悪い「俺」とありすの会話。(このとき記載される「丘の上のビョーイン」は、去人たちⅡの病院?)

・放送室で首吊り死体と盲目の少女を発見。只埜と翠子が入れ替わるようにやってくる。

 

今節では、『去人たち』の主要な登場人物が出揃う。このようにして書くと、プロットの優秀さがわかる。

いろいろ解釈したいことをさて置き、ここで言及することは「テクストを読むこと」がたくさん出現することだ。「俺」は読む。手相、点字タツヲと盲目の少女の発言、翠子の精神分析吹奏楽部員のデータと発言、只埜の様態。

また「俺」だけでなく、盲目の少女も読む。盲目の少女は、上述の言葉をうわのそらで喋るが、“透き通っているかのように肌の青白い、薄命そうな少女”は自分でないかと「俺」に指摘されると、納得したかのように消える。盲目の少女は、その時にこの言葉を読めたのかもしれない。

テクストは「俺」や盲目の少女に読まれ、次にプレイヤーが読む。プレイヤーは、読んだことについて想起する自由を持っている。ちょっと知っていれば、ああ中原中也だなとか、雀聖と呼ばれた男だなとかパロディを想起するかもしれない。『去人たち』の魅力はパロディ要素にもある。

 

Ⅲ 生きていくための現実を失いし者たち

 

美神の博士も病床で妄想を抱いていた。

だから、その妄想はその当事者にとっては許容しなければならない妄想であろう。

そしてそれを真実として受け止めねばなるまい。

死の床であるからそうしなければならない、

というのは死に特権を与えることになる。

その考えは改める。

これは『疑似』現実である。

だからそれが真実であると受け止める。

__「俺」

 

今節のあらすじは下記となる。

 

・相談室で只埜との会話。只埜は錯乱し、富絵の名前を口にする。富絵が喋る。

・詰め所で「俺」宛の住所に小指の骨が届けられる。小指を回収するという殺人の論理を思いつく。少女が登場し、自分は幽霊であると告げる。

・十七年前の音楽室の空間に視点が移動する。富絵と只埜康成が登場する。盲目の富絵は只埜から目玉を受け取っていたが「俺」に只埜へ目玉を返すように願う。

・現在の音楽室で富絵と出会う。富絵は胸中の気持ち、自身の死因、只埜の動機を告白する。という夢を見る。

・夢でありすと会話。夢の中のありすは指の骨のことを知っていた。ありすの死の恐怖を感じるもありすの姿で安堵するが、ありすは指が六本あった。

・詰め所にて目が覚めた「俺」は、翠子と会話した後に時間の非現実を感じながら音楽室へ向かう。音楽室にて只埜と会話し、只埜は自分は死んだと言う。そして呪殺を認め、富絵を発狂させたと言う。只埜は富絵への想いを告白し、消える。首を吊った只埜が現れる。

・詰め所にて封筒は未来の「俺」が自分に送ったものであると理解する。タツヲにいちごミルクジュースを指摘される。

・ありすと一緒にいちごミルクジュースをのむ

 

今節は展開が一気に急転し、只埜と富絵の物語はひとつの収束へ向かう。今節の特徴は、作品内で流れている時間が連続性を失っていることだ。富絵の出現で17年前に飛んだり、朝と夜が入れ替わる。その支離滅裂は「俺」が読んだテクストだ。したがって、作品内の時間の実際はまた別の話としても考えられる。

なぜ「俺」にとって時間の流れが支離滅裂に感ぜられたのだろうか?

今章に限って考えられる範囲で、現実的に考えられる理由として、「俺」の体調不良、自律神経の衰弱によって「俺」の観察する視点自体が“信頼できない語り手”になっているという仮説だ。つまりは「俺」が体感する時間が支離滅裂になっているというわけだ。だから上述の内容や、もしかしたら只埜と富絵は発熱したときに見る夢の人物で、今節の内容は調子を崩した「俺」が心理的な作用による幻覚との交流でカタルシス効果を得た__もちろんそういうわけでも支離滅裂の理由として妥当たり得る。

しかしそれでは、只埜と富絵をまったく無視することになる。時間の支離滅裂さを「俺」が体感するとき登場している人物は、この二人なのである。

只埜と富絵が、どのような人物なのか描出してみよう。まず、ふたりの関係を整理する。17年前、只埜は富絵を恋するあまり、抉り出した片目を富絵へ譲った。富絵は発狂し、六本の指を切り落として死んだ。時が経ち現在、只埜は富絵との思い出のピアノを傷付けた人物へ怨嗟の念を込めて富絵の小指を送り、呪法の媒介道具として機能させた。現世を彷徨う富絵は、自身の小指を回収することで呪殺に携わった。

只埜は、自身が発狂させたかもしれない富絵を恋心と後悔から忘れられず、富絵らしき影が出現すると錯乱する。(だから、なぜ小指を送ろうと思いついたのかは書かれていないが類推すると、匿名的な仕返しと、富絵に対する気持ちの断念を兼ねていたのかもしれない。小指を送った人物が亡くなるにつれて、もしかしたら富絵に会えるかもしれないという気持ちが沸き起こると同時に、自分に復讐しに来るかもしれないという気持ちが入り混じっていたのかもしれない。

自ら富絵に殺されることを望んでいた只埜は、六本目の小指を手放さなかった。死後、富絵と同じく幽霊となっていた只埜は、富絵から「俺」を通じて目玉を受け取ることで消えた。

 

「両目で見たって偽物の世界は所詮偽物なんだよね」

__只埜

 

両目を手に入れた只埜は上述のセリフをこぼす。

只埜にとって片目は富絵に月の光を見せるものであり、自分への愛を確かめるために富絵を狂わせるためのものだった。

なぜ只埜はそのようなことをしなければならなかったのか__今更になって書くことの無粋さを感じてきたが、ここまで来たら一蓮托生だ。それは、この偽物の世界において自分が愛されるわけがないと感じていたからだ(そして富絵も同じことを言う)。今章においては、過去で描かれる以外に只埜と富絵が気持ちを通わせることはない。唯一、片目の返還を覗いては。

只埜にとって、片目の返還はどのような意味があったのか。少し俯瞰してみれば、これはただの返還ではなく、交換であることがわかる。只埜は片目を富絵から受け取り、富絵は指の骨を只埜から受け取った。そして只埜も富絵も消えた。問いを変えてみよう、この交換がふたりに齎したことはなんだろうか?

富絵はどのような人物なのだろう。富絵は自身を幽霊という。彼女が幽霊となった理由は、下記のセリフに語られている。

 

「ええ、ずっとずっと忘れていた。どうしてわたしがこの世界を彷徨っているかも知らなかった。でもこれはこの指のせいだった。知っていて? 天国も地獄も不具者は入れてもらえないの」

__富絵

 

富絵はなんらかの因果__「俺」は共謀と指摘するが__で指を取り戻す度に、指を持つ人物を死へと導く。この指は、自身の葛藤や不安、また死の想念が分離されたものだ。富絵がうわのそらで話すセリフは、小指として分離された人格のセリフかもしれないと想像がつく。

 

「頭の中の少女は、指が動くと操り人形のように動き回る。逆に頭の中の少女がその指を動かそうとすれば指は勝手に動いた。その指は常にわたしを殺すことを企てていた」

__富絵

 

富絵もまた、自分が愛されるわけがないと考える人物だ。(『去人たち』をクリアしたのプレイヤーのかたは、こうした人物を他にも想起してもらえれば、わたしのこの節における結論をなんとなく予想すると思う)

 

「わたしは機械じゃない。だからこの指を切り落とすなんてことは絶対にしたくなかった。父も母もわたしの指を忌避し、そして瞽であることを忌避し、わたしを親切丁寧に社会から匿った。わたしは瞽だから指が六本あることになんの疑問も抱かない。みんなが五本の指しかもたないことも中学になるまで知らなかった。みんな、不具者であるわたしを差別感によって親切に接し身体的欠陥には触れないよう触れないように、頻りに気持ちの悪い配慮をしてきたせい。わたしの指がおかしいことに気付いた時にわたしは深い孤独に陥った」

__富絵

「『みんな、わたしをいじめた。あなたは仕合わせ。わたしだって仕合わせになりたい。わたしを愛して欲しい。わたしが誰か教えて欲しい。わたしを生かしてほしい。死にたくない。泣きたくない。悲しみたくない。苦しみたくない。みんなと一緒に笑いたい。わたしが彼を苦しめるなら今すぐに死んでしまいたい』わたしが言いました。それは不思議なことだと思う?」

__富絵

 

富絵にとって片目は重荷だった。それは、愛されないはずの自分を愛してくれる人物がいるという現実を富絵に突きつけたからだ。そのことは「見えている月の光は違う」と富絵が強調する部分から読み取れる。(富絵は指を切り離す前から人格が分離していたのかもしれない。愛されないのは自分のせいだとする自分と、愛されないのは他人のせいだとする自分がいたかもしれない。いわば富絵の指は復讐したのだ。自分に向いていた破壊の欲望が、分離したことで他人に向いたのだ。)そしてその突きつけは、富絵が指の骨を切り離す契機となる。

そうして富絵は、時間が止まってしまった存在として「俺」の前に現れる。 「俺」は偶々にも、“透き通っているかのように肌の青白い、薄命そうな少女” が富絵自身であることを読み、教える。富絵はそれを読むことで、分離した自身を回収する。

「俺」にとって時間が支離滅裂に感ぜられた理由は、はっきりいってわからない。今章のみだと論理的にはっきりしない。でも、もしかしたらこのような回答ができるかもしれない。「俺」の意識が、時間が止まってしまった富絵の意識と感応した。あるいは、只埜と感応したのかもしれない。なぜなら、富絵の表象は只埜のものだからである。止まってしまった時間は、他者に感応した「俺」の時間に貫入する。結果「俺」の時間は支離滅裂なものとなった。

或いは此の言い方もどうだろう__時間とは他者の数だけ存在する。そして時間は、他者と同じ長さを持っているわけでない。それはわたしたちの「現実」の進展に依存するものだからだ。

 

「でも十七年前も現実と同じように一年ある。あなたが一年を感じると同じだけの時間がね」

__富絵 

少女に時間などは関係ないのだ。認めたくない存在である。そして彼女は言っているのだろう。本当はこの世に時間など存在しないのだと。

__「俺」

 

時間の問題をやや投げやりに、時間が止まってしまったということでなにを表現しているのか考えてみたい。それは「生きていくための現実」が失われてしまったということだ。

無粋を承知して定義すると、「生きていくための現実」は、自身と他者に共通するコンテキストにおいて、一次的に成立している事実である。その機能は、自身の言行や認識を根源的に理由付ける。それはトラウマ的であるために、言語でそのすべてを語ることができないが、言語によって、テクストを読むことで接近することができる。

富絵のとっての「生きていくための現実」は、愛される自分という現実だ。なぜなら、愛されないはずの自分が愛されたとき、愛される自分という現実に耐えきれず、富絵は死んでしまったからだ。そのことは只埜も同じであり、迂遠な仕方で富絵の愛を確認した只埜は指を手放さず、死んだ。

生きていくための現実」と言いながら、富絵と只埜は死んでしまったではないか!と思ったかもしれない。それは正しい。なぜなら、「生きていくための現実」は、それを手に入れることが必ずしも生きていけることを意味しない。なぜなら、「生きていくための現実」は、無意識にそれを知りたくないがゆえに妄想で覆われているからだ。「生きていくための現実」に接近することは、それが受け入れがたいものであるから、否定、否認含みの接近となるからだ。

そして富絵と只埜は、片目と指の交換を通して自らの失ったものを取り戻した。その失ったものは、まさしく、それこそが「生きていくための現実」を象徴していたのでないだろうか。

理解しやすくするため構図化すると、富絵にとって片目は、愛される自分(という生きていくための現実)を否定する象徴だ。只埜にとって指もまた、愛される自分(という生きていくための現実)を否定する象徴だ。

そして、その交換が象徴的であるならば、一節で述べたテクストの構図に重なるのでないだろうか。「俺」によって読まれた富絵のテクストを只埜は読み、「俺」によって読まれた只埜のテクストを、富絵は読んだのである。

さて、長々とやってきた。これらのことから、わたしの今回の記事で主張したいことのふたつ目は次のことだ__わたしは誰もが口にしなかったから、もしかしたらと思って口をつぐんでいたけれども、やはりここまで来たからには書かなきゃいられない__『去人たち』の特徴的なモチーフ、あるいはテーマは、生きていくための現実を失いし者の悲哀だ。

富絵と只埜に限らず、『去人たち』の登場人物の多くは「生きていくための現実」を失っている実感を持っている。『去人たち』を駆動させる動力源は、「生きていくための現実」を失っていることに対する抵抗である。そして、その抵抗は、読みによって、あるいは読まれることによって、または読まれたテクストを読み返すことによって、登場人物たちはおこなうのである。

こうしてみると、こう書いたら怒られるかもしれないが、「秋日狂想」はただでさえエモい『去人たち』のなかでも、全体から際立ってエモい__愛されないと思っていた人たちが、愛し合うことですれ違って、愛を確認して死んでしまうのだから!

 

さて、なんとなくいい所まで来たと思うので、まとめてみよう。

「去人たちにおいて表現されていること、そのひとつ目は、探索としてテクストを読むことである。読むことによって、あるいは読まれることによって、または読まれたテクストを読み返すことによって、登場人物たちが現実や意識を探求するさまが表現されている。またふたつ目は、「生きていくための現実」を失いし者たちの悲哀である。「秋日狂想」においては富絵と只埜が「生きていくための現実」を失いし者たちとして描かれ、彼らは象徴的な交換=テクストを読み合うことによって、「生きていくための現実」を取り戻そうとした。この構造は『去人たち』を貫いて表現されていると考える」

以上!

 

 

 「真実を知っているみたいに、正しいことを、ただ正しいという理由であたしたちに押し付けないでよ!
あたしたちが欲しいのは決められた真実なんかじゃない!
生きていくための現実なのよ!」 

__『去人たち』「つみびとをして」東久邇翠子

 

 

 

 

 

 

ここからネタバレおわり_____________________________________

 

 

 

 

 

 

補遺・自己批判__さて、本当にこれが『去人たち』で表現されていたことだったろうか?

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去人たち/K2Cee

今記事の読みの問題のひとつは、印象的でテーマ主義であることだ。テーマを抜き出すことは、自己の投影と表裏一体である。だから、結論が妥当かどうかは全くわからない。もうひとつの問題は、暗黙に精神分析の方法を使用していることだ。くわしい人は語彙からよくわかったと思う。さらにもうひとつの問題は、部分から抜き出した要素が『去人たち』全体に当て嵌まるのか、そしてその要素は『去人たち』だけが特異に表現していることなのか検討できないことだ。

だからわたしが求めている反応は今記事を『去人たち』読解への叩き台としてつかっていただくことだ。

言い訳として、わたしはテーマ主義の読み方をあえてするしかなかった。

『去人たち』の記事は、いまインターネットアーカイブからどんどん見えなくなっている。

誰かが書かなければ『去人たち』が忘れられないかという不安がある。

そして『去人たち』の試みが理解されないものとして理解されてしまうかもしれない悲しみがある。

理解されないのはもしかしたらもっともな反応かもしれない。

しかしそこで意味を受容したわたしが存在する。

たしかに存在するのか? 

ああ、ああ、そういうことだったのか歌穂。

わたしたちも上手に去ることができませんでしたよ。

 

 (終)

 

思い出語り_『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』

 『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』を見た。内容は1960年代のフランス映画の主要人物であるゴダールトリュフォーの出会いと決裂を描いている。

 ゴダールトリュフォーもわたしは結構見た。理由はオタクの求心力があって単純に暇だったからだ。二人に関する本も結構読んだが、内容は断片的にしか記憶していない。

 だから、まじめな文章を書けないことを言い訳しておく。多汗症による手汗もひどくて、レトリックに凝る気すら起きないと言い訳を二段重ねしておく。そして、思い出語りなので映画の感想より個人の回想の方が長いと三段重ねしておく。

 今回の話題といいますとね、ゴダールトリュフォーどっち派ですか?という問いですよ。

 それは、わたしがヌーヴェルヴァーグの映画を集中的に見ていた頃へ遡る。わたしの友人にはシネフィルがいて、彼は映画館でアルバイトして映画を年に三百ほど見て、ついでに熟女好きだ。熟女好きは当然ヌーヴェルヴァーグも見ており、当時わたしたちはゴダールトリュフォーやハスミンで盛り上がっていた。

 熟女好きは、ジガ・ヴェルトフ時代いわゆる政治化したゴダールを見ていなかった。単に見る機会がなかったのと、前評判から見る気も起きなかったのだと思う。ジガ・ヴェルトフ時代のゴダールの映画は、いろんな人が評しているから他を当たってほしいが、まあ単純で簡潔に節操なくあけすけに野蛮な言い方をすると難解だ(映画の雰囲気をわかりやすく伝えるために難解と表現しました)。わたしは68年フランスやマルクス主義運動の本に親しんでいたから、たのしい知識を得ようという心持ちでジガ・ヴェルトフ時代のゴダールを見たが、ほーん、中国共産党に共感してんだな、という具合で主張を十全に咀嚼するでもなく映像の実験場としてたのしんでいた。(映画中に寝るのってたのしいですよね?)

 わたしと熟女好きは、ゴダールトリュフォーの映画の手法について話し合っていた。わたしはその頃トリュフォーは好きだがダサくないか?と思っていたから、映画理論や政治と映画という本を読み、いわんやゴダールに転移して「映画オタクくんさあ……」といういっぱしの口を叩いていた。一方で熟女好きは、「いやでもさあ……」とわたしに反論するでもなく口ごもっていた。

 懐かしい記憶の話題はここで終わる。

 久々にゴダールトリュフォーヌーヴェルヴァーグとの名詞に触れ、映画を観覧したが、今やわたしはあの時と違う話が出来るのでないかと思い至った。

 ゴダールに転移していた理由は諸々だが、一番は政治が問題意識にあったからだと思っている。政治は政治でも「内閣は毒電波によるキノコパワーで国民を無力化している」という言説でなく、「わたしたちはわたしたちのことをどうするのか」という広い意味の政治であって、更にそのテーマにおける「創作の受容」という問題意識だった。つまり、例えるなら「表現で人を傷付けるかもしれないことに自覚的でいよう」という言説の周辺に興味があった。

 当時わたしと熟女好きは組織に所属していて、組織でバカ面白いことをやろうと息巻いていた。それはパフォーマティブな反復で、観客から銭か塵が返ってくるような思い付きだ。実行され公表されたが、結果は思い描いた予想をもちろん下回り、内輪で消費された(と思う、しかし僅かながら嬉しい反応はあった)。

 というわけで、興行も乏しく作家的な試みに挑戦していたジガ・ヴェルトフ時代のゴダールに転移していたと説明したら、納得いただけるだろうか?(べんざカバーの自我調べによると納得しないでほしいとも意見もあり)

 けれども『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』をみて、思いがけず今のわたしを代弁したのはトリュフォーだった。

 トリュフォーのお抱え俳優ジャン・ピエール・レオに向けて、ゴダールトリュフォーの『アメリカの夜』とレオの態度を批判する手紙を書いている。トリュフォーはレオに代わってゴダールへ20ページの返事を書き、この手紙によって二人は決裂してしまった。との脈絡が『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』でナレーションされている。その手紙の内容は恐らく調べれば出てくるので、気になった方は見てほしい。

 まあ、いわばゴダールトリュフォーは政治的態度から反発し合ったわけだ。その後ゴダールは政治映画を作る一方で、トリュフォーマティスの絵を回想しながら芸術に政治は必要なく芸術は他者のためにあると述べて(要検討)、自分の作風を転回せず1984年に逝去した。

 上の通り朧げなんだけど、わたしはトリュフォーの語りに共感した。わたしはいま時間があることを良いことに、多くの作品に接して自分の世界に没頭しつつある。政治の話は聞きたくないわけじゃないが、つまらないだろうとの予測のもと、つまらない話しか聞いていない。もちろん現内閣による驚愕の陰謀、秘密、スターウォーズ計画などが暴かれても、結局のところ利権や外交関係に尽きるだろう。政治の現実はたぶん、つまらないし、そこはわたしの住む場所じゃないと感じている。そして、この話題は政治にアンガージュマンしたくないと言ってるわけじゃないと先んじて言っておく。

 言いたいことは、ゴダールトリュフォー両者の態度のバランスは取れなかったのか思案してしまったことだ。正直なところ、ゴダールトリュフォーも言葉の表面によるすれ違いなだけであって、想像界の双頭的関係による無意識的な衝突だったのでないかと考えている。ちなみにわたしはトリュフォーの態度をあの頃けなしていたけど、今や正直な態度でいいなと感じるし、トリュフォーゴダールと同じくらい好きで、事実として見た映画の数ならトリュフォーの方が多い。

 「バランスを取る」とはどういうことなのか? わたしが言いたい方向は弁証法チックだが、それは不可能な弁証法かもしれない。芸術と政治はよき夫婦でなく、その結婚も悪い予感しかさせない。

 しかし、ゴダールは映画の中で見過ごせないことを述べた_「映画で現実を学んだ」。映画の写す現実とはなにか? それはミニマルな現実なのか? もしくは享楽の体制を見せかけにしてしまうような現実なのか? 

 芸術性や政治性という要素の、バランスを欠くことない創作とはなんだろう……『勝手にしやがれ』と『大人はわかってくれない』をもう一度見たいと思った。

 もちろんこのバランスは、ヌーヴェルヴァーグに後続する映画監督ならば、けりをつけるなど何なりして意識の過程を経て表現していると思うし、ファンもそうだと思う。このわたしの疑問はわたしの人生の一回性に依るものだ。熟女好きと、また話さなければならない。

 そんなわけで、『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』は、私にとって回想の機会を与え、或る躓きと或る着想に関する映画だった。いつのまにか手汗がひいている。食事にしよう。

@goodbyewoosiete