ある日のあるDiscordサーバーにて、私はそれを知ることになった。
『ワンダーエッグ・プライオリティ』。なんて作画のきれいなアニメだろう。
そして野島伸司さんの挑戦的なコメント。なんて視聴意欲をそそるのだろう。
一話。
最高なのでは?
私が惹きつけられた理由として、まず一つ目に物語の語り方が好き。一話あるあるなのかもしれないが、今作品の一話は出来事の順序を発生順に説明する形式をとらず、出来事は主人公の思考の流れと共に説明されて並び替えられている。物語の筋を把握するためには、あの出来事があったからあの出来事があったのか、とこちらが出来事を線で結ぶ必要がある。前か後かはたまた同時進行なのか。正確なことはわからない。肝心なことは出来事同士の関係なのだ。一話のラストは、そうしてこれまで語られていた複数の時間が折り重なって着地したかのようだ。アニメの語源はアナクロニズムである(うそです)。
さて、もう二つ目の理由として、『ワンダーエッグ・プライオリティ』一話はアニメ『serial experiments lain』のオタクを狙い撃ちにしたからだと思っている。以下では、『ワンダーエッグ・プライオリティ』の一話におけるlainとの相似について語ってみよう。
大戸アイはバツ印の髪留めであり、長い前髪でオッドアイを隠している。もうこれだけでバツ印の髪留め・おさげで耳を隠す岩倉玲音さんを思い返したくなるが、まだ早い。
長瀬小糸はでこ出し眼鏡で、作中内の彼女の行為、そしてその行為が大戸アイを異世界へ誘うので、否が応でも四方田千砂を連想させる。
大戸アイは深夜に散歩するくせがあり、その際にパーカーで自分をすっぽり覆う。岩倉玲音さんも夜はくまパジャマ着てたね。
序盤。学校のような異空間へ足を踏み入れた大戸アイは、異空間にて異物として認識されているような存在だ。すれ違う生徒は顔を描かれず、ただすれ違う存在として描かれている。ここら辺りはまさしくlainの一話の場面、玲音が学校で幽霊たちと遭遇するシーンと非常に似ている。またBGMもそれっぽい。
この異空間としての学校は空白と霧がひしめいている。これもまたlainにて見られた光景である。
この「死ね」が「預言を実行せよ」を想起せざるを得ない理由は、このシーンのあとに大戸アイがトイレの個室に籠もるからだ。lainの四話でも、玲音の姉・岩倉美香が「預言を実行せよ」というメッセージが与えられる出来事から逃れるために個室に籠もり、個室の扉にびっちり書き込まれたそれを目撃することになる。
個室に籠もった大戸アイは、トイレットペーパーの唇形成体から話しかけられる。ワイヤードへ足を踏み入れた玲音も「チェシャ猫」という唇だけのアバターから話しかけられていた。
肥大のち破裂した卵から出てきた彼女(名前を忘れてしまった)。
そろそろみなさんも、私が病気なほどにlainを見ていることがわかってきたの思うのだけど、病気の私の場合だとこのカットを見るだけで、「何の罪もないはずなのに 何らかの罰を受けてる~」というlainのEDが思い浮かぶのである。
というわけでブレザーもなんとなく似ているというふうにかんじてしまうわけであります。病院いったほうがいいな。
そして「見ないふり」が登場する。「見ないふり」は主人公たちを追いかけるわけであるが、その足跡として赤緑ピンクのペンキだか血だかを背景にぬったくる。これもlainで見たことがあり、lainは建物の影に同じような色が散りばめられている。
これら背景では、ゴッホの絵画における教会の如く、遠景に電線や電灯が必ず配置されている。単に現代日本風景を活写するとこうなるだけかもしれないが、ここまでlainとの相似でこの作品を見てきたからには、やはりlainの痕跡を見て取ってしまう。
さて、すべてを拾ったわけじゃないが、このように『serial experiments lain』と相似するシーンや要素が散りばめられていると感じた。実際に引用元だったらどんなにうれしいことか!いやまあわからないけどね。自分の浅学で、lainの引用元を知らないだけかもしれないし。そういえばlainのシナリオ集で、lainの一話は完成度の高い見本としてアニメスタッフから参照されることの多いアニメーションであると読んだ覚えがある。そういうことかもしれない。とにかく実際は謎である。
何を作るのかが共通すると具材も似通う、ということがあるだろう。すなわち、ワンダーエッグ・プライオリティの表現の方向性とlainの表現の方向性が、微細に違っても重なる部分があって、用いる設定からそれらの表現が奇跡的に重なったというわけだ。
それではワンダーエッグ・プライオリティはlainの物語性を反復し物語性に応答する作品になるのだろうか。なったらおもしろいなあ。serial experiments lainのアニメ版は「記憶は記録」「人はみんなつながっている」というテーゼに反抗した物語だと私は解釈している。この二つのテーゼは、いわば作品による世界に対する解釈である。一方で、ワンダーエッグ・プライオリティは「セカイを変える」という文句が打ち出されており、恐らく物語はこれから「セカイ」の内実に迫っていくと思われる。この「セカイ」を蝶番にして、これら二作を語り直すことができそうな気がする(ちなみに私は全然趣味じゃないので、「セカイ系」の議論についてスルーしておきます)。
『ワンダーエッグ・プライオリティ』において、セカイは卵としてメタファライズされているように思う。しかし卵は複数のメタファーで、卵を通してセカイは複数のメタファーとして表現されるのだと予想する。
私は卵料理がたいへん好きなので、同じく卵料理であろう『ワンダーエッグ・プライオリティ』の卵の扱い方に、たいへん期待している。私の場合だと、卵が食用と印付けられていたとしても、育む命が出てきたらと想像してしまう。ゆえに、卵を割るときはいつも恐る恐るだ(村上春樹の卵の側に立つ話とか思い出す)。でも、落としたりなんだので不意に割ってしまうことがある。そのとき割れるものは、卵だけではないのである。「もしもこれが有精卵だったら……」という可能性そのものが割れてしまうのだ。もし私の人生がフィクションなら、私が卵を落としてしまうシーンは私がひよこ以前のなにかを殺してしまうシーンとなるだろう。
このように、失われた過去の可能性を表現できる媒体がフィクションなのである。そして私はそういうフィクションを愛している。そしてそういうフィクションを愛する理由は、手を汚す感触を常に語るからだ(やってしまった感)。それは手を汚した気にさせるだけだと言われたとしてもだ。現に、アニメをつくるという作業自体が手を汚す仕事である。私はアニメ(のみならず)を手を汚したものとしてみている。
失われた過去の可能性と、手を汚す感触。前置きが長くなったが、私が『ワンダーエッグ・プライオリティ』に惹かれた第三の理由は、私のテーマ的感覚を刺してきたからである。
なにはともあれ、こんなに素晴らしいアニメたちがあって、私はしあわせです。