去人たちと私

去ってもよろしいでしょうか。


私が『去人たち』をプレイして早……覚えていない。とりあえず幾数年とだけ。

去人たちについて何度も語ろうとした。それでも私は語ることができなかった。なぜか? それは去人たちがそのような効力を持ってたからだと、確信をもって言える。ひどいと思われるかもしれないが、しかし何とも動かしがたい事実として、「去人たち」と検索してみよう……いや、きっと、去人たちが好きな人ならこれ以上なにも言わずとも、この話題から


去ってもよろしいでしょうか。


なんで去人たちに辿り着いたんだろう? 作者らがやっていたニコニコ生放送でも、この話題はあがっていた。「去人たちプレイした人ってどこ経由なんでしょうね?」んー。私も覚えてない。まったく覚えていない。レビューサイトという声が多かったが、私もレビューサイトを見た覚えがある。どこだったかは忘れた。当時、フリーゲームを漁ることにハマっていて、ニッチでエッチなゲームをいかに発見するかに執念をかけていた。他にもホラーゲームが好きなので、もともと使っていたPCはフリーホラーゲームの海の藻屑と化している。となると……
フリーホラーゲーム→ニッチでエッチなゲーム→去人たち……?


去ってもよろしいでしょうか。


当時、たぶん中学生だったこともあって内容は全くわからなかった。理解力がいつもコース半周遅れている私なので、去人たちⅠにあたるシナリオは二周して「アッ!!!!!!!!!!!ソウイウコトダッタンダ!!!!」という反応だった記憶がある。二周させられた。なにが何だか分からなくても、強烈なカタルシスがあった。作者らのニコニコ生放送(※異化、美の去人たち)で、作者たちは「感動モノにしたくなかった」といっていたが、やややややや!!二週目で思いっ切り泣いたヤツがここにいる。気持ち悪いな。
去人たちⅡはどうだったろう。私は、この世でいちばん読んだ物語は去人たちⅡであると胸を張るまでもなく言える。それでも、やっぱり……暗闇。目を覚ました私は、部屋の電灯をつけるため「そこ1」に足を置いた。そして「そこ2」から足を踏み出す。それから「そこ3」に手を置くも、スイッチがないことがわかる。経験的感覚で指先を駆使して「そこ4」を探るも、スイッチはみつからず、いまだ物語は暗いままで、私はもう寝ることもできないまま、スイッチを探し始める……そのためには、まず「私の部屋である」という事柄に疑いを差し向けなければならなかった。乱暴に手を振り回して、壁との接触を試みるも、壁だった場所を手が通る。えっさほいさ状態。どじょう掬いとかやっちゃう?
いいえ。歩き出すしかなかった。部屋を明るくするために、歩き出すしか無かった。そうして一歩を踏み出した私。歌穂に手をとられたのか、やがて臨床心理の道をたどることになる私。あの虚構船団を読んだ日の頃の私。


去ってもよろしいでしょうか。


やがて私は、美術高校生をやっていた。相変わらず、去人たちをやっていた。なにもわからないままから、少しわかるようになっていた。筒井のオマージュであるとか、lainのオマージュであるとか、中原中也であるとか、薬菜飯店とかだ。しかし、オマージュであるということはわかっても、肝心のゲーム内容は何を意味しているかわからない。薬菜飯店もわからん。どうすんのよ。意味わかんねえよ。むきー。そうだ単語がわからん。「超越論的統覚」。調べる。「デストルドー」。調べる。というわけで私は、フロイトを読み始めて、哲学を読み始めて、現代思想の坂を転がっていく……しかし、それは言い様のない場所、虚無、目と耳のあいだの空間、“対象”への接近だった……。


去ってもよろしいでしょうか。


春の桜が散るころに、私は去人たちを卒業していなかった。去れなかった。
ところが、去人たちで開かれた道は多くの恵みをもたらした。
いま、詩をやっているし、絵も続けているし、とにかく様々なことに関われている。読書なんて生命活動の一部となった。今期から新しい挑戦をするだろう。将来選択だって、歌穂ちゃんを追っていると何故だか臨床に携わることに。安易なカタルシスに身を任せて、ここで筆を置こうとしているわけでないよ?よ?よ?しかしそれでも、私がいまここに在ること、それは去人たちのおかげであると書きたかった。こんなことだけじゃない、私が感じていることは。書きたいことは書けない、今も。


去ってもよろしいでしょうか。


デバッグをやったこともある。去人たちZEROプロローグのだ。私は「ムーミンだけは俺を殺せる」とかいう、訳の分からん偏執的な一文を名前として登録していたので、それが載ったエンディングを見たとき冷や汗をかいた記憶がある。まあそれもよいでしょう。(よいのか?)いいんだよ。それと、「去人たちwiki」、編集できない。回数制限をかけられてブロックされてしまっている。下書きを残そうとして、何度もページを更新しているとシステムにスパムと勘違いされてしまった。マズい!サツだ!ささーっ。管理人さんは見ているなら私に権限を譲渡してください。


去ってもよろしいでしょうか。


せっかくここで終わるのも勿体ない気がしたので、ひとつゲームに関して言えることがあるとするなら、Ⅱのエンディングはハッピーだと思います。誰にとってのハッピーか? それは精神病十種の患者たちにとってです。


去人たちのこれからを祈って。

無為とか無駄とか一切わからない。

時間の流れが全体的にかなり遅く、しかし瞬間的にかなり早い。これはどういうことだろうか。気付くともう、こんな時間。だけども一日しか経ってない……そんな気分で毎日を過ごしているが、無為に過ごしたとか、そういう後悔はないから充実しているのかもしれない。不思議だ。私はワタシがわからない。私のために費やされる予定だった資源、私のために私を待っていた資源、私のために到来する資源、そういうものはない。無為とか無駄とか一切わからない。ついでに効率もわからない。
油絵を描きました。すごく観念的で幸せで気持ちいい絵だと思います。カ・イ・カ・ンしたい方はぜひ。開眼しましょう。えどこでやってるかって? 私はワタシがわからない……。


さて本題だ。金銭的余裕が増えたので、毎日のように私は映画を見て本を読んで過ごしている。毎日毎日来る日も来る日も、本本本本映画本本本映画……心はブルジョワ、立場はプロレタリア、生きるのが困難! 言ってみただけ。

ゲンズブール親子ともに好きなので、この映画を見ました。言っては悪いが、ひどい映画だ。娘と父親のホームビデオじゃないか。最後のほうで虚構性を明るみに出したオチをつけているが、いやいやいやいや娘が好きなだけでしょ! 娘が好き。将来の父親である(かもしれない)この私にも、それはよく分かる。自分の娘はものすごくかわいいなんてこと。
実際に子供がいるかどうかはここで問題じゃない。飛躍するが、創作とは自分の子供をこしらえることでないだろうか? 私はなんとなくそんな気分がしている。子供について客観的な判断を下すことは難しいし、足りない部分は揃えてあげたくなるし、何よりも親の私が私の子供を一番好きだ……そういう意味で、全くこの映画はひどいが、とても好きだ。


今回の油絵についても、同じことが言える。
みすぼらしいし、きたならしい、愛らしい。

曲がり角は無修生です


今回は油絵を描いた。
去年の冬か今年の初めだったか、それくらいの時期に声がかかった。主催者とは「よい仲」であって、たぶん一番近い表記は「戦友」だ。闇の中を共に潜り抜けた。そんな感じの。
そんなこんなでお声がかかった。当時は「アングラな感じ〜」と聞いていて、なるほどそれで私に声をかけたのか、と思っていたけれども、見てくだしあ。画像。これ。風? 薫る? ポストカードがとても爽やかですね……曰く、「なんかそうなった」らしい。
ポストカードに載せる詩を書き下ろしていたのだけど、“爽やかが全裸で逃げ出す”内容だったので、全体の調子を欠くとかでボツになった。しかし「私はあの詩好きなんだけどな〜」と言ってくれた手前、ボツのままというのも勿体ない。なのでポートレートに載っていると思う。

本題。今回は油絵に挑戦した。
かつて私は油絵が大嫌いだった。色が混ざる。筆が汚い。油臭い。思うように色が作れない。つまりどうにも手間が掛かる。同じ筆絵の水彩は油絵の嫌な理由が水で濡らせば解決するから、嫌いでなかった。ただし好きでもなかった。もともと色塗りが好きでなかった。ブログを見てくれてる皆さんは知っているかもしれないけど、私がネットに挙げている絵は殆どモノクロだ。どうして色を塗らないかって? 特に深い理由はない。色塗りが本当に好きじゃなかった。だから油絵も好きじゃなかった。
やがて時を経て、ヨーロッパ美術史の勉強をわりと真面目にやった。それから絵画も見るようになった。読書好きが高じたという理由もある。私の好きな映画監督デヴィット・リンチのインタビュー集や、彼の作品の絵画を見ているとなんとなく油絵がやってみたいなあ、なんて気持ちがふんわりと沸き起こってきて、それからフランシス・ベーコンの画集を見て、完全に踏み切った。「勇気づけられた」……違う……「励まされた」……違う……「彼のパッションに当てられた」。ベーコンは肖像画が特に好きである。見たままのイメージをキャンパスに流し込んでムリヤリ鋳造するようなその暴力性。そして出来上がりの躍動感はあまりにもリアルだ。私はその芸術性に力強く握られて、きたない汁をドバドバ吹き出すしか無く、気付くと油絵にそれを塗りたくっていた。人間的な、あまりに人間的な!
詩を書き始めてから感覚が変わった。私の過去の作風を知っている人間なら、そう感受してもらえると思う。全身の肌を取り替えたと言うか。でも流れる血は変わってない。相変わらず変なことをしているし、もしかすると場違いかもしれない。それでも今回の自作はこれまでいちばん愛せる絵になったと思う。見てもらえるとわかると思うが、人のために描いたってこともある。だから作品づくりでやってしまう私的なクセを意識的に抜けた。今後もそれをどう抜くか手心がわかったし、どう作るかも分かった。方法が見えたのだ。ラカン精神分析のおかげでもあります。

恐らく自分の曲がり角でありながら、これからは胸を張って絵画の代表作といえる作品ができたと思う。そんなこんなで風薫る皐月展をよろしくお願いします。

ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念

ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念

世界はいまだlainだもの。

注 またくだらない記事です。

昨日は生放送をした。ひとりの雑談に慣れないあまり「明日から鏡に向かって言葉を投げる練習をしよう」と決意させられた。そして今は液晶に向かって言葉を打っている。今日はlainの話をする。プレゼント・デイ。プレゼン・タイム。アハハハハハハ。


serial experiments lain。シリアルエクスペリメンツレイン。
今世紀の混迷は予言されていた。こう書くと胡散臭いと返ってきそうだが、現実の情況は残念だけどもっと胡散臭い。小事を見るとほんの些細なつぶやきでSNSが炎上したり、匿名の慟哭が国会に響き渡り流行語賞を獲得したり。大事を見ると隣国で急進派の大統領が当選したり、過激なやり方の大統領が大国に事実上「中指を立てた」り。「いろいろあった」の言述で済ませるに難しい世間だ。まるでポップコーンが爆発したみたいに。火はもう限界温度でポップコーンははちきれんばかり。膨らんだ包紙は図に乗った悪ガキだから、世界は図に乗った悪ガキのDJによってチェケラッチョ!冷蔵庫に入って自撮りをSNSにアップだ!あの子やこの子よ見てくれよ!自撮り!パシャ!そう自撮。自撮と書いてジサツと読みます……「僕は、加速するのを感じた……書類送検された少年はこう供述しており、それに対してハイデガー教授は「我々は共同存在。目も当てられない。」とツイッターに投稿したところ横からクソリプが飛び「横から失礼します。あなたはナチスに加担しましたよね? 人間は共同存在と説くならば〜」「ナチのカスがご立派なことを」「アーレントがどうしたって?」ご覧のとおり飛び火した模様です。

「時折ツイッターをみていると、タイムラインのツイートが神に祈るような所作に思えてくるよ。「インターネットに神はいるんだろうか。」私は孤独な言葉を投げてみた。零いいね零リツイート。『僕たちの祈りは空しく風に消えてゆくけど、神様だけは知ってるでしょ?』神様は何も言わない。神様は存在できない。神様は応答しない。本当に? インターネットに神様が存在しないって、まだ言ってるの? 確かに神様はいないかもしれない。でも、インターネットなら神様の存在余地があるかもしれない。現実の余地可能性は一掃されたしまったけれども、インターネットなら、インターネットなら……」

lainは古びれない。lainはいつだって強いのさ。メタファライズ、意志、パワー、目の光、存在。設定こそインターネット導入初期の時代だけど、そこで描かれているコトはいつの時代だってありふれたコトなのさ。芸術学部、女子校、軽音楽部、男子高校生、etc……日常アニメはこれまで数多く作られてきたね。しかしどの日常も見る時代が違えば非日常アニメさ。江戸時代に『あずまんが大王』を、平安時代に『けいおん!』を見てみろ。「いとおかし」で済むかい? いや済むかもしれないね。済みます。きっと面白いことだろうね。でも『lain』ならきっと、いつの時代だって変わらない反応があると思う。「なにこれ」「うわあ」「テレビを消しなさい」みたいな。そして一部のマニアックなギーグが「いとおかし」な反応なんだろう。悲しいね。

lainに先見の明はある。「lainは抽象的なわかりづらい預言だった」って、マジキチ呼ばわりされようとも唱えるよ。見てほしいから具体的にどこがどうとか言わないけどね。逃げてもいいさ!にんげんだもの

たぶん見る価値は何よりもある。私がアニメを知らないだけかもしれないけども。世界はもっとlainの価値に気付くべきなんだと思う。攻殻機動隊はやっと実写化された。信じられない。今更すぎる。lainももしかしたら……? その先鞭となれるときは今しかないし、たぶんこれからきっと。

べつにlainが「現代を透徹した」とか「預言した」とか分かりやすい受け売りを持っていようが持ってなかろうが、それでも時代はlainなんだと思う。否が応でもlainは遍在してきた。それが証拠だ。今わたしたちはlainで描かれてる時代に生きてる。いや入ろうとしてる。もしかしたらずっとやってこないかもしれない。lainは来ない。でもきっとlainを向かい入れるときがきっとやって来る。世界の歴史がトンネルなら、私たちはlainのトンネルの入り口でずっと足踏みしてる。先を、覗いてみる気はない?

ペペロビッヒ元少佐とシャルロット隊長のおくるメリー・クリスマス

兵舎の食堂はどんちゃん騒ぎの、正規兵も雇用兵も入り混じったお祭り騒ぎの渦中にあって、下品な見世物_例えばサンタクロースの担ぐプレゼント袋を股間に垂れ下げて『キンタマクロース』と名乗り、陰嚢を模したそのゴミ袋を下敷きに煙突へ飛び込んで火を消す_といったものから小洒落た手品のようなものまでが披露されていたが、誰も今日のメインイベントを忘れていない。前回のクリスマスが記憶にまだ新しいペペロビッヒは特にそわそわしていた。時計を見る。うむ。大丈夫。
「用意はできてるか」「勿論ですぜ」彼の弟分のフリスビーはサンタクロースの格好をして、『キンタマクロース』を見物する人々に目を合わせると、彼らは一目散にトマトケチャップやソースもしくは暖炉の煤で薄汚れた軍服を脱ぎ捨てる。『食堂内での帯銃禁止』と張り紙されているにもかかわらず、帯銃しているガンマニアまでもが素直に荷物を隅へ寄せ始める。数分もするとなんと全員がタキシードの紳士に早変わり。「髪を梳かねぇと紳士とは言いがたいんじゃねえか?」とクシを懐から取り出した者たちが各々のボサボサ頭を撫で付け始めた。
兵舎の煙突を登り切り望遠鏡を覗き込んでいたフリスビーは目標の姿を認める。「敵影、二時方向に確認!」と下にいる紳士たちに声をかけると「了解!」との返答。


足取りは重いが頑固としてテンポは崩れない。激しく身を責め続ける吹雪などに屈しない。シャルロットは急ぐこと無く兵舎への帰路を歩いていた。<氷の恩情>との渾名を陰で囁かれている彼女なものだから、雪より彼女の体温のが冷たいかもしれない……が、しかしそのとき彼女の口からぼそっと漏れたのは「……寒い……」という彼女らしからぬ弱音だった。
今宵は偶然にも哨戒任務の番に当っていた。長らく敵襲のない傭兵会社の兵舎において、哨戒任務はもはや形だけのもので兵士の中には『都合よく』『任務を遂行できなかった』者までおり(もちろんそのような者の殆どはシャルロットの容赦無い制裁を貰う羽目になるわけだが、中には「それがたまらないっ」と言ってわざわざ堂々と任務を怠ける者までいた)、正直なところ彼女自身もクリスマスに哨戒任務へ赴く気力は減退していた。だが兵舎の責任者であり兵士たちの模範たる彼女は<融通や柔軟>といった言葉に甘んじるわけにいかず、部下をひとり連れて哨戒任務へ出て行った。
兵舎の辺りを回るだけとは言うものの、規定されたポイントで立ち止まって周囲を確認しなければならず、周回の数も十回に及ぶ。重い腰になるのも当然ともいえる作業と化していたが、彼女はそれを一人でこなしていた。連れが途中で「ションベン行って来ます」と彼女のそばを離れたあと行方は知れなくなってしまったからだ。当然その顔は覚えているのでどういった体罰を与えようか入院は何ヶ月で済ませてやろうかなどど考えながら積雪に足踏むと、しだいに日は暮れて、風は強くなり、彼女の機嫌は記すまでもない。
さてすべての周回を終えて、兵舎の入り口に彼女は立った。吹雪の音のせいなのか、兵舎の中から音は聞こえず何時になく静かだ。この扉を開けると年齢を弁えない各人による喧騒に迎えられるはずなのだが……彼女は兵士の精神年齢を数えると恐らく一番上だという自覚があった。元気なのはよいことだが必要以上に元気だと戦場で死ぬ。そんな遠い昔に教わった上官の言葉を思い出す……訝りながらも扉を開ける。暖炉の灯りの代わり暗闇が開いた隙間から覗けた。


ぼっぼっと闇に空中に火が灯る。それは手に持たれたたいまつの灯りだ。「メリークリスマス」上品で様変わりした声に出迎えられてシャルロットは戸惑う。入り口から赤い絨毯が敷いてあり、絨毯の両脇にたいまつを持ったタキシード姿の紳士が二人いた。「こちらへご案内します」と声をかけられて、「お、おう……」と戸惑いを隠せないのが態度に現れる。そのうち外套が丁寧に脱がされて、シャルロットの目は下を向いて未だに困惑のまま。しかし彼女は<氷の恩寵>、直ぐさま事態の異状に対応し「何のつもりだ」と尖った声が出る。
「今宵はっ、ク、クリスマスであります、ですからその、」言葉に詰まった男を片側の男が助ける「日頃お世話になっている団長へのお祝いに、催し事を開いているのであります」お祝い……その単語に気を咎めつつも意味を理解するに至った彼女、「ふん、良いだろう、丁重にもてなせ」と返して俯く。その表情はうかがい知れないが、凍りついた<融通や柔軟>が溶け始めたのは紛うこと無い。
案内された部屋は食堂だ。「メリー・クリスマス!」と掛け声、歓声に出迎えられる。暖炉の火に照らされたテーブルの上にはロウソクの立てられたケーキ。丁寧に盛り付けられたとは表し難く、いかにも料理をしない野郎共のドヘタな手先によって凝らされた趣向だが、料理を苦手とする彼女には関係がなかった。「貴様ら……」顔は<氷の恩寵>然としていて一向に顰め面を崩さないが、声色は聞いたことのないような色に変わっていた。
するとここにペペロビッヒが参上、暗闇から暖炉の灯りへ歩み出た彼はケーキに入刀して、切り分けた欠片を小皿に盛る。所作はスムーズに行われ、まるでいつもの彼ではない(彼だけタキシード姿でなくいつもの軍服だったが)、そして一言。「隊長、メリー・クリスマスです」
「フッ、」史家は歴史を綴るが、歴史を紡ぐのは人々だ。このとき彼ら傭兵会社属兵士たちは歴史的瞬間を紡いだといえるだろう_「フフ」彼女が微笑したのだ。その微笑が響くや否や灯りはライトアップ、「うほおおおおおおおおおおおおおおおおお」の歓声ともに服は脱ぎだすわコップを床に叩きつけるわお互いを殴りあうわのしどろもどろの大騒ぎ。
そしてその喧騒にまたもや「うおおおおおおおおお」の声が暖炉から響くと次に「キンタマクロースだようううう!」と叫び声。ドスン!と火を潰して登場するは我らがキンタマクロース!「イェア」と暖炉から身を起こそうとするも暖炉の穴は思いのほか狭くてなかなか通れない。しかし場はすでに狂騒に支配されて誰も彼には気付かない。そうすると押しつぶれた火が勢いを取り戻してキンタマクロースないしフリスビーのケツに火が点き始めて「ねえちょっと、おい、誰か、おい、燃えてんすけど、ねえ、燃えてるよ、サンタさん燃えちゃってるよ、ねえ、誰か、ねえ、」


雪は次第にしんしんと降り始め、その轟々たる風音も失せていき、かわりにフリスビーの断末魔が夜空によく響き渡る。今宵はメリー・クリスマス。

ペペロビッヒ元少佐とシャルロット隊長がおくる明けましたメリークリスマス来年もよろしくおねがいします

シャル「おい、これは何だ」
ペロ「何だといわれましても……あれです、メリクリと新年を同時に祝っちまおうという、作者からのささやかなお祝いだそうで……」
シャル「そうじゃない。その悪趣味のほうではなく、この羊のほうだ。私が羊嫌いのことを知らないのか」
ペロ「知りません」
シャル「ずいぶん反抗的になったじゃないか……」
ペロ「い、いえ、ポ○モンにメリープってい」「これ以上言ったら殺される!!!!常体に反抗的な方向へ四肢の骨が折り曲げられて殺される!!!!!!でも言わざるをえない!!!!」「ポケ○ンにメリープって」








そのとき!世界が光に包まれた!!!!地平線は純白に染まり、空を、太陽を、すべてが白く染まっていった!!!
そして世界に暗闇が戻ったとき、人々はあの光の意味を考え始めた。なぜあのときみんなが白くなったんだろう。なぜ世界が一瞬真っ白になったんだろう。しかし、まもなくその疑問は「遅れてきたサンタさんのプレゼントだから」「早めの初日の出が特別すごかったから」という迎年の勢いによる狂喜混じりの答えにより、誰も口にする者はいなくなった。
そして、哀れにも!若き軍人の死体が新年早々とみつかった!死体は四肢の骨を滅茶苦茶に折り曲げられていたのだ!!



ペペロビッヒはみんなのゆめの中でいきつづける!!!!!!!!!!






ペペロビッヒ(元)少佐のだいぼうけん
最終話「永久に」






※この物語はフィクションのフィクションです

日本昔話「ぼくとちんちん」

日本昔話「ぼくとちんちん」



むかしむかしあるところでおじいさんとおばあさんがセックスしました
おじいさんはおばあさんが孕んだと分かると「降ろせや そのガキ降ろせやああん?」とおばあさんをおどしました
逆上したおばあさんはおじいさんを刺し殺してにげ、
流れ着いた先でこどもをうみました
そのこは「ちんちん太郎」と名づけられたのです


ちんちん太郎は奇妙なことに、うまれたときからちんちんがズル剥けだったでした
おばあさんは「これはめずらしい 立派なちんちんだ」といいよろこびました
ちんちん太郎が8歳のときつつもたせを生業としていたおばあさんはヤクザにころされたので
ちんちん太郎はいとこのいえへ引き取られました


いとこの男の子とちんちん太郎がお風呂にはいったときのことです
男の子はちんちん太郎のズル剥けデカチンポにとてもおどろき
「うわぁ さすが罪人のこだ」とちんちん太郎をさげすみました
ちんちん太郎はそのときなんともおもいませんでしたが、男の子はちんちん太郎のあそび相手や周りの人に「ちんちん太郎は皮をかぶっていない。罪人のこどもだ」ということを言い触らしたのです
そしていつのまにか、母親が夫をころしてにげてきたことはちんちん太郎の周囲にしれわたっていたのです
そのときからちんちん太郎はいじめられるようになりました
「ずるむけかめさんやーい!」
「ひとごろしのくせにちんちんは立派なんだなぁ!」
ちんちん太郎はなやみました
「どうしてぼくはいじめられるんだろう ぼくはなにもしていないのに」
ほんとうに、ちんちん太郎はかぶっていないのです
罪を、皮を


あるとき村にヤクザがおとずれました
ヤクザは「あのアマのこどもをさしだせ」とむらのにんげんにいいました
ちんちん太郎はヤクザにさしだされてしまいました
ヤクザはいいました
「おのれのママにはよ、せわんなってな、ちょいとはらのむしが おさまらんのや」
「おのれのくそアマはしにやがったんで、てめぇにせきにんとってもらうんからな わるくおもわんといてや」
ちんちん太郎はヤクザにれんこうされました
くるまのなかで考えました
「どうしてぼくはうまれてきたのだろう なにがわるいんだろう わるいのはぼくでもなくて ちんちんでもなくて…」
車がとまりました
「おら、でてこいや」と手足をしばられたちんちん太郎は車のそとへなげだされました
そこはおおきなそうこでした
ちんちん太郎のまえにはあたらしくヤクザがふたりいて、ふたりのあいだにはドラムかんがありました
「このがきですか」
「うわほんとにズルむけやんな」
ちんちん太郎はなすすべもなくふたりにもちあげられ
ドラムかんへちかづけられました
ドラムかんのなかには 生きているかめさんがたくさんつまっていました
おなかをすかせたかめさんはおたがいのひふを食いちぎりながらドラムかんのなかであばれていたのです
ヤクザはいいました
「これから、これにはいってもらうからな」
ちんちん太郎はいやだ、しにたくない、どうしてぼくが
とていこうしましたが、ヤクザの手はゆるみません
とうとうドラムかんのなけへとなげだされてしまいました


すうしゅうかんたちました
村のこどもたちもしらない、うらのしゃかいであるビデオがでまわりました
「ズル剥けデカチンショタ苦しみの果てに!」
そのせいさんなえいぞうは うらしゃかいの人たちにたいそう気にいられました


あるときけいさつによる一斉検挙がおこなわれ
うらしゃかいの人たちはあっという間につかまりました
けいさつのおじさんは「ズル剥けデカチンショタ苦しみの果てに!」とかかれたビデオをしょうこひんとして持ちかえり
再生したのです
けいさつのおじさんはかなしみました
「どうしてこのこどもが こんな目に」
こどもがいるおじさんはなおさらかなしみました
ちんちん太郎をはじめてかなしんでくれる人が
やっとあらわれたのでした


おしまい

@goodbyewoosiete